はじめは夢かと思った。
 遠くでぼくの名を呼ぶママの声がした。思いつめたような甲高いその声はしだいに近づいてきて、ぼくは目を覚ました。
 部屋の中は真っ暗だ。
 ぼくがまだぼおっとしているうちに、ママは蛍光燈のスイッチを入れてしまった。
 ママがつかつかとベッドに歩み寄り、ぼくの腕をつかんで立ちあがらせようとした。
「はやく起きなさい。朝ごはんでしょ」
 ぼくはまだ寝ぼけたまま立ちあがった。何がなんだか、わけがわからない。
 ママはそのままぼくを強引にひっぱっていったが、部屋のドアのすきまから中をのぞきこむパパのうろたえたような顔を見つけると、急に立ちどまった。
「あなた!」
 パパはあわてて首をひっこめた。
 ママはふたたびぼくの腕をぐいぐいひっぱって、部屋から連れだした。その寸前、ようやく明かりに馴れたぼくの目が本棚の上の目覚まし時計を捉えた。
 三時――
 階段を下りると、パパとおねえちゃんが突っ立っていた。おねえちゃんはいまにも泣きだしそうな顔でパパにしがみついていた。
「和子――」
 パパが蚊の鳴くような声を出す。
「いつまでグズグズしてるんですか」ママの声は、いらだちを隠そうともしない。「あなたがそんなふうだから、真奈美だって言うことをきかないんじゃありませんか」
 パパはあわてて食堂へ消えた。おねえちゃんが必死にそれを追いかける。ぼくはふらふらとママのあとにしたがいながら訊いた。
「ママ、いったいどうしたの」
「だから言ったでしょ。朝ごはんだって!」
「でも、まだ夜中だよ」
「いいから来なさい!」
 ママとぼくも、食堂にはいる。
 テーブルの上には、食器がいっぱいならんでいた。
 パパとおねえちゃんが、そのむこうでこっちを見まもりながら立ちすくんでいる。
「はやくしてくださいな!」
 ママがヒステリックに叫ぶと、ふたりはあわてて椅子に腰をおろした。
 ぼくはママのとなりに腰かけさせられた。
 ぼくが指で目をこすっているあいだに、ママはお椀にご飯をよそいはじめた。パパとおねえちゃんはママからお椀をおそるおそる受け取ったが、それをじっと見据えたまま、箸をとろうとはしなかった。
 ママがギッとにらみつけて、パパはあわてて箸をとる。しかし、すぐに箸もお椀もテーブルに置き、なさけない目をママに向けた。
「なあ、和子――」
「せっかく作ったのに、食べないって言うんですか」
「いや、そうじゃないんだ。ただ――」
「ただ――ただ、なんだって言うの!」
 ママはいきなりテーブルにこぶしを叩きつけた。おねえちゃんが急に大声で泣きわめく。
「わーん、ママが気違いになっちゃったよお!」
 ぼくはいっぺんに目が覚めてしまった。
 ママはおねえちゃんをにらみつけて、静かに、諭すように言った。
「真奈美、おまえの目の前にあるのはね、おまえや義雄やパパのために、ママが真心をこめて作ったものなのよ。そりゃ、たいしておいしいものじゃないわ。でもね、みんながまだぐっすり眠っているあいだに、ママはひとりで起きて、一生懸命作ったのよ」ママの声はだんだん大きくなっていく。「ママはね、毎朝毎朝、どんなにからだの調子が悪いときでも、あなたたちのために、いちばんはやく起きて、朝ごはんを作ってるのよ。それなのに、どうして食べられないの!」
「和子、お願いだから――」
「いいのよ、パパ。あたし食べるわ――いただきます!」
 おねえちゃんはシクシク泣きながら箸でご飯を口へ運びはじめた。喉を通らないのを、無理に押しこんでいるといった感じだ。ママは髪を振り乱したまま満足そうに唇を歪めた。
「さあ、あなたも――」
 ママが言おうとすると、パパは決心したかのように眉間にしわを寄せてママをぐいと見据えた。
「いいか、和子、気をしっかり持て」
「あら、あたしはしっかりしてますよ」
「いや、和子。なんだ、その――おまえのな、おまえの気持はわかる。おまえが毎朝一生懸命やってくれてるのにも感謝してる。しかしな、いまは夜中だ。夜中の三時だ。まだ朝ごはんを食べる時間じゃないんだ――」
「あなた!」
 ママがいきなり両手でテーブルをどんと叩いて立ちあがった。
「あなたにはちっともわかってないじゃない! あたしがどれだけ一生懸命やったと思ってるの? そりゃ、いまは夜中よ。でもね、あたしはたった一時間しか寝てないの。眠いのを我慢して、無理して起きて、お湯を沸かして、ご飯を炊いて、みそ汁を作って、卵を焼いたのよ。それなのに、あなたは文句を言うばかりで、ちっとも食べようとしないじゃないの。いまが夜中だからって、たったそれだけの理由で、あたしの真心を踏みにじるつもりなの!」
 ママはそこで、あえぎながら一息ついた。つぎにしゃべりはじめたときは涙声だった。
「あなたの言うとおり、いまは夜中だわ。真夜中だわ。そんなことはちゃんとわかってます。でもね、それとあたしの真心とはなんの関係もないじゃありませんか。だったら喜んで食べてくれてもよさそうなもんだわ。別に夜中だって朝ごはんは食べられるわよ。あなたの気持ひとつじゃないの」
 ママの声はさらに大きくなった。
「そうよ。誰が朝ごはんは朝食べるものだって決めたのよ。夜中だってかまわないでしょう。あたしはそうしたかったのよ。みんなのために、少しでもはやいほうがいいと思ってそうしたのよ。朝ごはんは朝しか食べちゃだめだって、法律で決まってるとでも言うの!」
 そこまで言うと、ママはいきなりテーブルに突っ伏して、とうとう、おいおい泣きじゃくりはじめた。
「和子――」
「パパ、お願いだから食べて」おねえちゃんが両目から大粒の涙をこぼしながらパパの肱をつかんだ。「ママの言うとおりよ」
 パパは疲れたように肩を落とし、溜息をひとつ洩らしてから、うなずいた。
「――わかったよ。おれが悪かった」
 ついに、パパもすすり泣きはじめた。泣きながら、パパはおずおずと箸をとった。
 ぼくは、そんなのはまちがってると思った。男は自分が正しいと思うことをつらぬかなきゃいけないって言ったのはパパだ。ぼくはうつむいたまま、小声で言った。
「ぼく、おなかすいてないよ」
「義雄!」
 とたんに、おねえちゃんの声がとんできた。
「あんたはママを苦しめたいの!」
 ぼくはおねえちゃんをにらみつけた。だけど、迫力はおねえちゃんのほうがはるかに上だった。まるで鬼の目みたいだった。ぼくはそれ以上さからったら、もっとたいへんなことになると思った。
 ゆっくり、お椀と箸をとる。でも、なかなか食べることができなかった。そのまま、とうとうぼくもめそめそ泣きはじめてしまった。
「義雄、はやく食べなさい!」
 おねえちゃんに怒鳴られて、ぼくはしぶしぶご飯を口へ運びはじめた。
 ご飯がこんなにまずくていやなものに思えたのははじめてだった。
 ママはそっと顔を上げ、ぼろぼろ涙をこぼしながらぼくたち三人を見まわした。おねえちゃんは無理に笑顔を作った。
「ほら、ママ、みんなちゃんと食べてるわ」
 ママはからだを起こし、あらためてぼくたちをひとりひとり確かめるように見ていく。
「ママ、おいしいわ」
「ほんと?」ママはそう言いながら涙をエプロンでぬぐった。
「うん。パパ、おいしいわよね」
「ああ、おいしい、とってもおいしいよ」
「義雄、おいしいでしょ?」
 おねえちゃんににらみつけられて、ぼくは「うん」と答えないわけにはいかなかった。
「ママ、みそ汁忘れてるわ」
「あ。そう、そうね」ママはあわてて鍋の蓋をあけ、お玉でみそ汁をすくった。
「ママ、みそ汁もとってもおいしいわ」
「うん、おいしいよ。和子。おいしいよ」
「そ、そう?」
「うん、とっても」
 ぼくたちが懸命に食べるのを見まもりながら、ママは微笑んだ。泣きながら、顔をひきつらせて微笑んだ。ぼくたちはひとりのこらず、ひどく歪んだ笑みを浮かべたまま泣きつづけた。
 そのうちに、ママはふたたびテーブルに突っ伏して、わっと泣きくずれた。

 そのつぎの日から、ママはもとどおりの、明るくてやさしいママにもどった。二度と、ぼくたちをとつぜん真夜中に叩き起こして朝ごはんを食べさせたりはしなかった。何事もなく、平凡で、単調な毎日のくりかえし。
 ただ、ぼくたちは、あの夜のことを、たとえママがそばにいないときでも、決して話題にしようとはしなかった。そして、朝ごはんのときには、ママの何気ない仕種にも、ついドキッとして、思わず顔をひきつらせてしまうのだった。
理由なき朝食


弾射音
ショートショート
作者紹介


弾射音(だん・しゃのん) ぱおにゃん?の前身「ぱおにゃんオンライン・マガジン」の執筆陣の一人。ていうか、大部分の作品を書いてペンネームをいくつも使い分けて載っけてた。1998年にSF長編「太陽が山並に沈むとき」でインターネット文芸新人賞に入選。そのほかに発表したのは「SFバカ本 たいやき篇プラス」(廣済堂 絶版)に収録された「夢の有機生命体天国」のみ。あはは。一時期ネットで小説を発表してただで読まれるのをしぶっていたが、全然売れないので反省してネットに復活した。デビュー作は無料化されて、青空文庫でダウンロードできます。

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2001/8/20

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