気がついたらぼくは人混みの中にいた。しっかり握っていたはずのママの手はいつのまにか離れていた。
人に押されて、ママを捜したくても捜せない。ぼくの目に入るのは、人々の腰や足ばかりだ。
ストッキングをはいた足、ジーンズをはいた足、ミニスカートにロングブーツをはいた最新流行の足もいる。ぼくはその足の顔を見ようと思って上を向いた。
若いお姉さんだった。困ったような顔をして、長い髪を手でもてあそんでいる。お姉さんも迷子になったのかもしれない。だったら、ぼくの仲間だ。何と言って声をかけようかな。ぼくは迷った。
「お姉さんも迷子なの?」
いや、やっぱりもうちょっと格好良く。
「一緒にママを捜そうよ」
その時、両腕に服をいっぱい抱えた太ったおばさんがお姉さんにぶつかった。お姉さんはよろめいた。そのおばさんは謝りもせず、せわしそうに行ってしまった。それを見送っていたお姉さんの表情が変わった。お姉さんはもう困ったような顔はしていなかった。頭を振って、額に落ちかかっていた長い髪を後ろに回すと、そのまま猛然と人垣の中に突っ込んでいった。
ぼくは仲間を失った。
みんなは相変わらず忙しそうに歩き回って、いや駆け回っている。
ぼくは仕方なしにママを捜す旅に出ることにした。
「お一人様、三点限りに願います」
お店の人がスピーカー片手に怒鳴っている。
ぼくの周りにいる人は狂暴に駆けずり回っている。誰かの膝がぼくの腕をしたたか打ちつけた。ぼくは立ち止まって腕を押さえた。
「あらあら」
そのおばさんは足を止めてそうつぶやくとすぐに行ってしまった。
ぼくは泣きたくなってきた。このままでは、ぼくはみんなに蹴飛ばされて、転がされて、踏んづけられてしまう。
ぼくは人混みの中を抜けて、隅っこで立っていることにした。
不意に目に温かいものが浮かんでくるのを感じた。大体、ママがいけないんだ。すっかりぼくのことなんか忘れちゃって、狂暴な人たちの仲間入りをしてるんだから。
人混みの中にいると、人の顔を見るのが大変だけど、離れているとよくわかる。みんな不思議なくらい同じような顔をしている。髪を振り乱して、目が血走っている。そして、みんな服を抱え込んでいる。確かさっき店の人が一人三つまでしかいけない、って言ってたけれど、みんな聞こえなかったのかな。それとも数が数えられないのかな。ぼくなんか十まで数えられるのに。
「これ私のよ!」
近くで大きな声がした。
「私が先よ!」
誰かが服の取り合いをしている。ママと同じくらいの年か、もうちょっと上ぐらいだろうか。金切声で言い合いをしているが、誰も止めようとはしない。あっ、あんなに引っ張ったら服が破れてしまうのに。
ぼくがお姉ちゃんと物の取り合いをしていると、ママはすぐに飛んできてぼくたちを叱る。でも、あの人たちは誰にも叱られない。大人ってわからない。子供にしてはいけないっていうことを自分たちはしているんだから。 下を向いていると、小さな二本の足が目に入った。目を上げていくと、女の子がぼくの目の前に立っていた。女の子はジャンパーのポケットに手を突っ込んでぼくを眺めていた。「何してるの」
女の子は言った。
「ぼく、迷子なんだ」
女の子はちょっと驚いたように肩をすくめてみせた。
「ママと来てるの」
女の子は言った。ぼくはうなずいた。
「大人って馬鹿みたいね」
女の子は売り場の大騒ぎを見ながら、うんざりしたように言った。
本当だ。ぼくもそう思う。
女の子はそれきり何もしゃべらないで、そこに立っていた。退屈そうに、片足で床に模様を描いていた。
売り場の混乱はおさまりそうになかった。大きな袋を抱えて帰っていく人もいたけれど、新たにやってくる人も多い。誰も、ぼくや女の子に目を止めてはくれない。
ぼくは頭の中でママから教えられた迷子の心得を復唱していた。しばらくの間はその場所を動かないこと。それでもママに会えなかったらお店の人に言うこと。
でも、どうしたらいいのだろう。お店の人ははるか向こうにいる。そこに行くまでに、ぼくはたくましい人たちに踏みつけられるに違いない。
ぼくの胸にまた悲しさがこみあげてきた。
ぼくも早く大きくなりたい。人の足ばかり見なくてもいいように。そうなったらぼくは気をつけてやるんだ。足元でチョコチョコしている小さな子に。
でも、ぼくはバーゲン会場には来ないだろうな。絶対に。
「お待たせ」
大きな袋を持ったおばさんが女の子に近づいてきた。女の子は怒ったようにうなずいた。おばさんはニコニコしてぼくを見て、女の子に聞いた。
「お話ししてたの」
「迷子なんだって」
女の子がぶっきらぼうに言った。
「えっ」
おばさんは大きく目を見開いて、もう一度ぼくを見た。
部屋の中には何人かの子供がいた。メソメソ泣いている子もいるし、すねたような顔をした子もいる。ぼくは多分、すねたような顔をした仲間だ。
バーゲン会場の熱気はここにはない。お店の制服を着た女の人たちが忙しそうに行き来している。一人の女の人がぼくにジュースを持ってきてくれた。冷えた缶がとても気持ち良い。
「ママを呼び出す放送をしたからね。きっともうすぐ来てくれるわよ」
女の人は言った。ぼくはうなずいてジュースを飲み始めた。
大きな袋を提げた女の人が駆け込んできて、泣いている子を抱きしめた。あのおばさんも狂暴な人たちの一人だったのだろうな。
店内ではひっきりなしに放送の声が聞こえている。
ぼくはお店の人に名前を聞かれたときちゃんと言えた。当たり前のことだけど、泣いてばかりいて答えられない子だっているんだ。ママはほめてくれるかな。良い子にしていたごほうびだって、おもちゃ売り場に連れていってくれるかもしれない。
おもちゃ売り場のことを想像すると、ぼくの顔はひとりでにニコニコしてくる。何を買ってもらおうかな。欲しかった機関車にしようかな。いや、やっぱり合体ロボットかな。それとも……。まあ、いいや。ゆっくり考えればいいんだ。おもちゃ売り場には狂暴な人はいないんだから。
そのとき、ママの甲高い声が聞こえた。
「達也!」
ぼくがびっくりして顔を上げると、ママはいきなりぼくを抱きしめた。
「まあ、一体どこに行ってたのよ。心配してたのよ」
ママは勢いよくしゃべり続ける。どこかに行っちゃったのはママの方じゃないか。
ママはぼくを腕から解放して、今度は頭をなで回す。
「御迷惑おかけして……」
ママはジュースを持ってきてくれた女の人に頭を下げた。
「いいえ」
女の人はそう言って優しそうにぼくを見た。
「ママが見つかって良かったわね」
女の人が行ってしまうと、ママは大きな袋から小さな服を取り出した。ママもやっぱりあの狂暴な人たちの一人だったのだ。
ママは青いジャケットをぼくの前に広げてみせた。フードもついていてあたたかそうだ。
「どう、これ。かわいいでしょう。達也に買ってあげたのよ」
ママが狂暴になって、髪を振り乱して服をあさっている姿が目に浮かんだ。
でも、ジャケットはとてもかわいい。ママはぼくを喜ばせようと思って、狂暴な人になったのかもしれないな。
ママはいつも、何でも高くていやになるってぼやいているから、きっと安く物を手に入れるのって大変なんだ。
とにかくまたママに会えたし、ジャケットも手に入ったし……。
ママの顔を見てると、突然ぼくの胸に熱いものが流れた。ずっと我慢してたんだけどなあ。
ママはまだ得意そうにしゃべっている。でも、ぼくの耳にママの声は届かない。
前に映画で潜水艦が海に潜って行くのを見たことがある。
ぼくの目は、その潜水艦の窓みたいだ。ぼくの目の中にあふれる波で、ママの姿はだんだんぼやけていった。
ぼくが迷子になった日
べべちゃん
ショートショート
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2003/12/14