第10回


「だめだよ!」
 信也は泣きそうになってふたたび叫んだ。
「もっとなんべんもとなえるんだよ!」
 哲郎の顔はしんけんで、目が血ばしっていた。
「心をこめて、なんべんも、なんべんも、うまくいくまでとなえるんだよ!」
 信也はもう一度やってみた。
 でもやっぱりだめだった。信也の目はうるみはじめた。
「だめだよ! どうしてもできないよ!」
「やるんだ!」
 哲郎の叫びは泣き声に変わった。目からはもう涙がこぼれている。
「いまやらないと、二度とできなくなるぞ!」
 信也も泣いた。
「下りてきてよ!」
「だめだ! もうもどれないんだよ!」
 哲郎は、上空にとどまって信也を見まもった。
 信也は空中で足をけり、でたらめに両腕をふりまわしてけんめいに上昇しようとした。
 だがやはりだめだった。
 あきらめたのか、哲郎は信也を見おろすのをやめて、上昇しはじめた。
 信也は下に目をもどした。
 生徒たちはもうほとんどが、先生たちにひきずりおろされたあとだった。逃げまわってブランコやすべり台に激突しているのもいる。
 何人かはプールに落ちておぼれかけていた。
 ふいに、真下から担任の先生がどなる声が突き上げてきた。給食当番がどうのこうのと言っているらしかったが、両腕両脚をひっしにばたつかせて頭に血がのぼりきってしまった信也には、何のことやらさっぱりわからなかった。
 信也は、先生を見ずにふたたび空へ目をやった。
 黒いかげが、太陽の近くをただよっていた。哲郎なのか、鳥なのか、区別がつかなかった。
 見まもるうちに、それは太陽の光の輪のなかにはいってしまい、信也はまぶしくて目を開けていられなくなった。
 ほほの涙が太陽の熱にかわきはじめ、まぶしさに新しい涙がにじみはじめた。目をかたく閉じて、信也は上のほうへあごを突き出し、けんめいにもがきつづけた。
 目を閉じたままでいると、きゅうにふしぎな感じがしはじめた。なにもないところをふわふわとただよっているような気分だった。
 地面も、先生も、青空もなくなり、ただまっくらなだけだった。上のほうで哲郎がゆっくりと遠ざかるのが感じられた。しかし、信也は奇妙な浮遊感にほとんどあせりを忘れてしまい、夢のような気分で哲郎に向かって力なく手を伸ばすことができるだけだった。
 ふと目を開けると、地面がすぐ下にせまって見えた。
 地面と信也のあいだに、先生の顔があった。
 信也は天頂へ向かってあわてて空気をかき分けはじめた。しかし、落ちるスピードをわずかにゆるめただけだった。
 先生が信也のくるぶしをつかんだ。
 ツメが食いこんでくる。
 ほかの先生たちが子供たちをひっぱったり、だきかかえたりしながら集まってきた。
 信也はとっさに周囲に目をやった。どうやらまだ引きずりおろされていないのは信也だけらしい。
 もうひとりの先生がもう片方のくるぶしをつかんだ。
「助けてよ!」
 哲郎は大声で叫んで、哲郎の姿をさがし求めた。だが大空のどこにも見あたらなかった。
 とたんにあせりがまたどっと出た。
 両腕両脚がいっせいにあばれはじめた。まるで四本とも信也とはべつの生き物になったように、てんでばらばらにはげしい動きをはじめた。
 わずかずつ、とぎれがちにからだが上昇しはじめた。
 右足をつかんでいた先生が両手で力いっぱい引っぱった。
 とたんに何十センチも下がったが、腕と脚がそれに反応して何倍も力強くあばれはじめた。すぐにまた上昇をはじめ、ふたりの先生が信也の足につかまったまま地面からはなれた。
 先生たちをぶらさげたまま、信也は水平にふらふらとただよった。
 脚をめちゃくちゃに振ると、左足がきゅうにかるくなった。
 目を下にやると、先生がしりもちをついて顔をしかめていた。
 まだ右足をつかんだままのもうひとりの先生が、下から信也をすごい目でにらんだ。
 信也はそのまま、わずかに上昇しながら横へ流れつづけた。脚を振るたびに、下で先生がぶらんぶらんと揺れた。
 校庭全体から生徒たちの大歓声が上がっていた。
 先生の腕をまんまとすり抜けた子たちが走りよってきて、信也の足をつかんでいる先生にしがみついた。そのため信也はまた下がりはじめたが、二、三人の子が先生のすねにかみつくと、きゅうに解放され、その反動でいっきに上昇した。
 子供たちの歓声がいっせいに大きくなり、青空と地面をまっぷたつに割ろうとした。みんな、飛びはねたり、両手を振って、信也に声援を送っている。
 やがて、最初に上昇したときの高さまであと少しというところまで来た。
 ふたたび下を見ると、生徒たちが逃げまわりながらも、あっちでひとり、こっちでひとりと、また先生につかまりはじめている。
 空へ目を転じた。
 そのまま太陽へ向かって空気をかく。
 両腕両脚から、すとんと力が抜け落ちる。
 もう体力をほとんど使いはたしてしまったのだ。
 信也はまた哲郎の姿を探した。
 どこにもない。
 呪文を思い出し、何度も何度も、のどがかれるまで大声でくり返した。
 よけいに体力を消耗するだけだった。
 やがてまた、ゆっくりと下降しはじめた。
 信也はからだを水平にし、のこる力をふりしぼって空中を泳いでいった。
 わたり廊下の屋根の上を通りすぎて、裏庭に出た。
 庭のすみにある小公園のおりの中から、鳥たちが信也を見ていっせいに声を上げ、あばれはじめた。
 そのあまりのそうぞうしさに、信也の頭の中はごちゃごちゃに混乱しはじめた。
 あせりがいっそうつのり、おしっこをもらしそうになった。
 力つきて、信也はこわれかけた裏門の柱につかまった。
 あえぎながら必死に考えようとした。これからどうしたらよいか……しかし、頭は混乱しきったままで、そのうえ心臓が強くあばれながら突き上げてくるので、よけいにあせるばかりだった。目がでたらめにあたりをさまよった。ひなびた裏庭、うすよごれた校舎、花壇、鳥小屋、木のさく……そして青空。
 ほんのみじかいあいだ、信也の頭からは、空を飛ぶということがすっかり抜け落ちていたようだ。空を見て思い出した。しかしそれは、一瞬、ありえないことのように思えた。だれでもない、ほかならぬ自分自身がついさっきまで宙に浮いていたことが夢の中のことのように感じられた。
 まだ混乱していたが、頭のなかはもう静かだった。
 いままでぼくはいったい何をしていたのだろう。
 信也は考えをまとめようとした。どうやらいまはお昼休みらしい。給食前だろうか、それとも給食はとっくに終わったのだろうか。みんなはどこにいるのか。そして先生は……。
 ひとつずつ、徐々に思い出した。
 すべて夢かもしれないという思いがまだ心の底によどんでいたが、青空を見上げるとそれを打ち消さずにいられなかった。
 哲郎くんはたしかに空を飛んでいった。ぼくも宙に浮いた。
 そして、全校生徒のほとんども。
 数秒のあいだ、信也はふたたび空へ舞い上がろうか、それとも地面におりようかと迷った。
 二度とできなくなるぞ……哲郎の言葉が頭の中にこだまして、のこっていた混乱がすべてふきとんだ。
 信也はからだを上へずらして、なんとか飛ぼうとした。
 しかし、門柱にしがみついたままの状態でどうやったらそれができるか見当がつかなかった。
 おりの中では鳥たちがかたずをのんで信也を見まもっている。
 いまや静まりかえった裏庭に、校舎をへだてて校庭のさわぎ声がかすかにただよってきた。
 どれくらいしがみついていたのか、両腕両脚がひどくだるくなってきた。
 信也はふたたび迷った。もういちど空を飛べるか、確信がなかった。ひょっとしたら、地面に足をつかなくても、門柱にしがみついて飛ぶのを中断したことで、もうだめになったのかもしれない。
 一瞬ためらってから、思いきって飛び上がった。
 だがその瞬間に、だめだ、という思いが心をかすめた。
 ……気がつくと、地面に背中から落ちていた。
 大の字にねころがったまま空を見上げて、しばらくぼんやりとしていた。背中がひどくいたんで、もう立ち上がれないかもしれないと思った。
 ふと、空に黒い点が円を描きながら舞っているのが見えたような気がした。
 信也は飛び起きた。
 とたんにパニックが信也をおそった。
 もう二度と飛べない……その考えは信也を恐怖のどん底へつき落とした。信也はあわててかけ出し、よごれたクツ下のまま校舎へはいった。
 中はひっそりとしていた。
 おもてのさわぎが壁に反響し、こだまが中をかけめぐっている。
 信也は階段をかけ上がった。
 二階の窓からからだをのりだして空を見上げた。
 太陽のほかにはなにもなかった。
 信也のからだはひとりでに窓をこえて、とび出そうとした。
 つぎの瞬間、信也はかたいものの上に押しつけられていた。
 だれかが背中をひっぱったのと、どすんという音が全身をつき上げたのをかすかにおぼえていた。
 かたいものは、廊下の床だった。
 若い男の先生が信也にしがみついていた。
 しばらくすると先生は信也をはなし、しりもちをついてあえぎはじめた。
 ふたりとも目をいっぱいに見ひらいてたがいを見まもった。
 あえぎながら先生は助けを呼んだ。
 おじいさんの先生が階段をのぼってきた。
「どうしたんですか」
 若いほうの先生は信也に目をくぎづけにしたまま、信也を指さした。
「こ、この子が窓から飛びおりようとしたんです」
 若いほうの先生が信也の腕を背中にまわして押さえつけ、おじいさんの先生がふたりの横にならんで歩いていった。
 三人とも、だまったままだった。
 ゆっくりと流れていく廊下の窓から、信也は校庭をぼんやりとながめた。
 だれもいない。ブランコがはるか遠くでかすかに揺れている。
 校舎のあちこちから、子供たちの泣き声や先生たちのひそひそとささやく声が聞こえてきた。もうだれもさわぎたてる者はいなかった。
 職員室の窓ぎわにあったこしかけに、信也はすわらされた。それは信也には大きすぎた。
 まだすこしあえいでいる若い先生と、疲れきったおじいさんの先生、それにあと数人の先生が信也を取りかこんだ。今年来たばかりの女の先生が校長先生を呼びに行った。
 反対側の窓から青空が見えた。太陽はのぼりきって、西の山への旅をはじめようとしていた。ほかには何もなかった。
 背後でこするような足音がいくつもかさなって聞こえ、信也はふり返った。
 白い三角巾とエプロンを着けた生徒たちが、給食の重い容器を運んでいく最中だった。
 ひとりのこらず、下を向いてすすり泣いていた。
 ふと、その中のひとり、信也がはじめて廊下を飛んだときに、うしろから信也を呼んだ女の子が顔を上げて信也を見た。
 女の子はしゃくりあげながら、涙でまっかになった目を向け、涙声でかすかに信也の名前を呼んだ。
 やがて、そうぞうしい足音が近づいてきた。
 若い先生は感情をなくしてしまったような目で信也を見まもりつづけていた。その背中ごしに、すきとおった青空が輝いていた。
 信也はふたたび窓から空を見上げた。
 哲郎の姿は、もうどこにもない。でも信也の耳には、哲郎がいつまでも、はやく空にのぼってこいと信也に向かってけんめいに叫んでいるのが聞こえつづけているような気がした。


                      15


 誰もいないつくえの上に細長い花ビンがひとつ。そこにわずかばかりの花が数本さしてあった。信也はそのほうになんども目をやり、ちっとも授業に集中できなかった。
 きのうは葬式だった。哲郎のおかあさんは涙で目をまっかにはらしていた。はじめて見る哲郎のおとうさんは泣いていなかったが、それでも最後のあいさつのときはことばをつまらせていた。
 やっぱり、手術は成功しなかったのだ。先生はそう言った。でも、信也はそのことばを信じる気にはなれなかった。
 あの日のことが、ほんとうのことだったのか、それとも夢だったのか、信也にはいまだにわからない。哲郎に借りた本をいっしょうけんめい読んで練習したおかげで、空を飛ぶ夢を見ることができただけなのかもしれない。でも、信也にはあれが夢だったとはどうしても思えなかった。
 哲郎が空高く飛んでいったのをはっきりとおぼえている。それから、自分自身も空を飛んだ。それから、みんなも。あれが夢だったはずがない。たしかに、みんな空を飛んだのだ。夢だったら、なにもかもこんなにはっきりとおぼえているはずがない。
 悲しみに満ちた葬式のことを、信也は思いだした。おとなたちは泣いていた。先生も泣いていた。参列したクラスの友だちのなかにも、哲郎とは親しくなかったのにつられて泣いている子もいた。クラスの代表がおわかれの言葉を読みあげているあいだ、信也はうつむいてくちびるをかみしめ、泣きだしそうになるのをじっとこらえていた。おわかれの言葉を読みながら、クラスの代表の子は哲郎が天国に召されて、二度と会えないというようなことをいっていた。哲郎のおとうさんも、最後のあいさつでおなじようなことを言った。でもそれはウソだと、信也は思った。
 葬式がおわって歩きながら、信也はなんども空を見あげた。どこかに哲郎が飛んでいるのではないかと思ったのだ。でも、哲郎の姿は空のどこにもなかった。飛んでいるのは、鳥たちだけだった。
 哲郎のつくえの上の花を、なんども見つめる。そして、なんども窓の外の空を見あげる。やはり、哲郎の姿はどこにもない。でも、きっといまも哲郎はどこかを飛んでいるにちがいないと信也は思った。ひょっとしたら、外国の空を飛んでいるのかもしれない。空を飛べるようになったのだから、どこへでも行ける。きっとぼくを子分にしたことも忘れて、空の外国旅行を楽しんでいるにちがいない。
 休み時間になると、哲郎のことを話しあう子たちもいた。それを聞きながら、信也は強く思った。
 ちがう。哲郎くんは死んだんじゃない。空を飛んで、遠くへ行っただけなんだ。みんなだって、哲郎くんに教えてもらって、ほんの少しだけ空を飛ぶことができたじゃないか。たしかに、哲郎くんはもう帰ってこないかもしれない。でも、それは死んだからじゃない。もう学校にも、家にも、パパにもママにも未練がなくて、自分の好きなところへ飛んでいって、帰ってくる気がないだけなのだ。ここには友だちがいなかったから、ほんとの友だちがいっぱい作れるところへ飛んでいっただけなんだ。
 どうしてぼくをつれていってくれなかったの? 信也は思った。ぼくはきみの子分だったじゃないか。それを忘れてしまったの? そう思いながら、信也はまたも泣きそうになった。
 目にほんの少し涙をうかべて、信也はいつまでも窓の外の空を見あげていた。





                        
わが手は翼、われは鳥


弾 射音
連載小説
この小説はフィクションです。

(C) 2003 Dan Shannon. All rights reserved



2003/7/21

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