第9回


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 気がつくと、信也は廊下にいた。
 目の前に哲郎が立っている。信也をまっすぐに見て、ニヤリと笑う。教室からは、クラスのみんなの声が聞こえてくる。いまはどうやら休み時間らしい。
「吉田、夢はちゃんとあやつれるようになったか?」
 哲郎が信也にきいた。信也はうしろめたさを感じながらうなだれた。
「ううん……ごめん。せっかく本を貸してくれたのに」
「いいよ。気にするなよ。あの本はおまえにはむずかしすぎたかな」
 哲郎がそういったので、信也はすこしホッとした。それから、どうしてこんなところに哲郎がいるのだろうと思った。
「相沢くん、手術するんじゃなかったの?」
「手術だって? そんなものやってられるか。そんなことよりも、うんと大事なことがあるんだ」
「手術しないと死んじゃうよ」
「手術したってどうせ死ぬんだよ。それより、どうしてもおまえに会わなくちゃいけなかったんだ。だから、病院をぬけだしてきた」
「大事なことって、なに?」
「聞いておどろくなよ。とうとう空を飛ぶ方法を見つけたんだ!」
「すごい!」
 信也は目をみはった。
「だからさ、手術して死んじゃうまえに、おまえに教えておいてやろうと思ってさ」
 もったいをつけて、哲郎がそういう。
「練習しだいさ。がんばれば、だれだって空を飛べるようになる」
「どんな練習?」
 信也は哲郎を羨望のまなざしで見つめた。心がわくわくしてくる。
「いっしょうけんめい足踏みしてると、そのうちに足が地面からはなれて、からだが宙に浮きはじめるんだ。そこまでいったらもう簡単さ。空気の上に寝て、両手を横にひろげて、あとは前へ向かって飛ぶだけだ」
 信也は興奮した。ほんとにそんなことができるのだろうか? でも、哲郎のいうことなら間違いはないと思った。
「見てな」
 哲郎は廊下のまんなかの黄色い線の上で足踏みをはじめた。ひと足ひと足、床をしっかり踏みしめる。木の床板がきしんだ。
 ゆっくりと、右足と左足を交互に床へしっかりと下ろしつづける。踏みしめた反動で足は高く上がり、膝が直角に折れる。
 そのうちに、足踏みのスピードが上がりはじめた。たいへんなことになりそうだと信也は思った。
 足踏みはどんどんめまぐるしくなり、目にも止まらぬスピードになる。
 信也は両手に汗を握りしめて哲郎を見まもった。
 もうほとんどかけ足に近い。はじめてから数分になるだろうか。哲郎は全身汗だくだ。
 そろそろ休み時間も終わるんじゃないかと思ったころ、哲郎が踏みしめた右足が急にそれまでよりさらに高く上がり、つぎに下ろされた左足は床すれすれのところでさっとはね上がり、右足より高く上がった。
 次の右足はもっと高いところではね上がった。床から数センチはなれている。
 信也は両目をまんまるに見ひらいた。
 三センチ、五センチ、十センチ……哲郎のからだは足踏みをくりかえしながらゆっくりと上昇していく。
 信也があっけにとられているうちに、哲郎は足踏みのスピードを落とし、ひたいの汗をシャツのそででぬぐって信也のほうを向き、ニッと笑った。
 足踏みがやんだ。哲郎はもう三十センチも浮き上がっている。そこで哲郎は空中にはらばいになり、平泳ぎのように両腕で空中をかいてあぶなっかしく飛びはじめた。
 哲郎が廊下を折れ曲がって飛び去るのをぼう然と見送っていると、きゅうにベルが鳴り、信也ははっとわれにかえった。
 哲郎ははじめたときとはくらべものにならないはやさで廊下の反対方向からもどってきて、信也の目の前で床におり立った。
 哲郎はふたたびニッと笑うと、なにもいわずに教室へはいった。哲郎はあわてて彼のあとを追った。
 つぎの授業はまったくうわのそらだ。信也はきゅうに先生にあてられてしどろもどろになり、しかられた。まっ赤になって席につくと、哲郎は信也をふりかえってニヤリとしてみせる。それからすぐに真剣な顔にもどり、ぴんと立てたひとさし指をくちびるに当てる。先生にはぜったいにいうなということだろう。四十五分間、信也は教科書をにぎりしめてしわくちゃにしながらけんめいに興奮をおさえた。哲郎が入院しているはずなのに学校に来ていることについて先生がなにもいわなかったことにもぜんぜん気がつかなかった。
 ひどく長い四十五分がやっとおわると、信也よりさきに哲郎のほうから近づいてきた。哲郎はだまったまま信也のひじをつかんで廊下へひっぱっていった。
「こんどはおまえの番だぜ」
 哲郎はにやにや笑いながら信也の顔と足もとを交互に見た。信也はどきどきしてくちびるをなめながら身がまえた。全身に力がこもってかちかちになった。
 だが、そこで大事なことを思い出した。
「きょうから給食当番なんだよ」
 哲郎は笑うのをやめて少しむっとした。
「すぐすむさ。やってみなよ。給食はそれから取りにいきゃいいんだよ」
「だって……」
 信也はためらいながら教室の窓をふりかえった。ほかの当番の子たちはもう白い三角巾とエプロンをつけはじめている。
「かまわないよ。やれってば!」
 哲郎は信也の背中を平手で力いっぱいどやしつけた。思わず前へよろけながら信也が見上げると、哲郎は目をつり上げて信也をにらみつけていた。
「わ、わかったよ」
 信也は足踏みをはじめた。最初はしぶしぶだったが、そのうちに夢中になり、全身の力が二本の脚に集中し、ひざが高く上がり、スピードが上がった。
「もっと早く!」
 哲郎が叫んだ。信也はさらにスピードを上げた。両脚が痛くなり、ひたいから汗がふき出した。気のせいか床が少しやわらかく感じられるようになる。
 ふと足もとに目を落とした。
 足の裏がかすかに床からはなれていた。
「その調子その調子!」
 哲郎が手を打ってはやしたてた。信也はさらにスピードを上げた。もう限界に近い。足は床からどんどんはなれ、からだがゆっくりと浮かび上がっていく。
「空気の上に寝るんだよ、はやく!」
 信也は足踏みをやめ、とっさに両腕を前へ投げ出した。からだが横にぐらっと揺れて落っこちそうになったが、あやういところで空中に腹ばいになれた。床からわずか三十センチの高さだ。
「すぐに手で空気をかかなきゃ!」
 哲郎のいうままに、信也は両腕をまっすぐに伸ばして前方の空気をかき分けた。ふらつきながら少し前進する。からだがとても不安定でひどくおっかなかった。
 落ちまいとして必死に空気をかく。やりかたがまずいのか、少ししか前に進まない上、どんどん下へさがっていく。
「もっとなめらかにやるんだよ。ドジだなあ」
 そんなことを言われても、無我夢中だからちっともなおらない。腹が廊下の床につきそうになり、信也はあわててひっこめた。
「斜め上にかけよ」
 信也は死にものぐるいでからだを反らし、上のほうへ両腕をまわした。
 少しずつだが、上昇していく。
 やっているうちに、スムーズに前へ出られるようになり、高さもゆっくりと上がっていった。
 やがて、頭と背中がほとんど天井に届きそうになる。スピードも上がって、ゆっくり走っているのと同じくらいになる。そうなるとあとはかんたんだった。すっかりうれしくなって、信也はときどき天井に手をふれながら、廊下をどんどん進んでいった。うしろで同じクラスの女の子が自分を呼んだような気がしたが、信也はふり返らなかった。
 スピードを落とさずに角を曲がる。
 きゅうに先生があらわれた。
 ぶつかりそうになり、あわててよけた拍子にバランスを失い、信也は床へいっきに落ちて、お尻をしたたか打ちつけた。
「こら! 廊下を走っちゃいかん! ぶつかったらどうするんだ」
 顔をしかめて尻をさすっている信也を、先生がすごい顔をしてにらみおろしていた。
「ご、ごめんなさい」
「なんだ、きょうから給食当番じゃないか。それなのに遊びまわっていたのか」
「い、いま行きます!」
 信也はあわてて立ち上がり、いちもくさんに教室へかけもどった。
 走りながら、信也はふと気がついた。
 先生にはぼくが空を飛んでいたのが見えなかったのだろうか。
 それにしても、走るのがこんなにもどかしいものだとは知らなかったと、信也は思った。
 教室の前で、はたと立ち止まる。
 もぬけのからだった。
 みんな、きゅうに消えてなくなったみたいだ。
 校庭からざわめきがただよってきた。
 信也は窓にかけよった。
 青空のカンバスの上を、哲郎が鳥のように優雅に舞っていた。
 哲郎は信也に気づき、ニヤッと笑って手まねきした。
 信也は窓わくをまたいで外へ出た。
 校庭には生徒たちがあふれていた。
 ひとりのこらずけんめいに足踏みをしていた。みんな、クツをはいておらず、はだしだった。
 すでに浮上しはじめた子どももいる。
 見ているうちに、あちらでひとり、こちらでひとりと、つぎつぎに浮かび上がりはじめた。
 信也が上から叫んだ。
「もっと強く!」
 何百人もの生徒たちの足音がいっせいに大きくなった。地面がゆれはじめたくらいだった。
 哲郎がふたたび信也のほうを向き、からだをひねって一回転した。
「来いよ」
 信也は夢中で足踏みをはじめた。
「なれたらもう足踏みなんかしなくてもいいんだよ。思いっきり飛び上がってみなよ」
 信也は彼を見上げて足踏みをやめ、一瞬ためらった。
「なにしてんだよ。ほら!」
 哲郎は両手をふり上げてうながした。
 信也はからだを深く屈伸させて力いっぱいジャンプした。
 からだがそのまま宙に浮いた。
 哲郎は拍手をして、からだをそらしながらさらに上昇し、一回転した。
 信也は両腕でひっしに空気をかいて、哲郎のところへたどりつこうとした。
 しかし、地面から五メートルぐらいのところまでが限界だった。それ以上はどうしてもだめだった。
 下を見ると、もう生徒たちの半数近くが浮かび上がりはじめている。男の子も、女の子も、きゃっきゃっと声を上げながら、ゆっくりと、あぶなっかしげに上がってくる。
 ふと、信也の目が、職員室のあるあたりにいった。
 クツをはいた先生たちが、競馬の馬のようにいっせいにかけ出してくる。
「みんな、やめなさい!」
 メガネをかけた女の先生が上へ向かって叫んだ。
 男の先生たちが生徒たちのあいだをぬって走りまわって、足踏みをやめさせたり、やっと浮かび上がりはじめた子をひきずりおろしたりしはじめた。
 信也は上を向いて叫んだ。
「そこまで行けないよ!」
 哲郎が叫び返した。
「呪文をとなえるんだよ!」
「なんて?」
「ワガテハツバサ ワレハトリ ワガテハツバサ ワレハトリ」
 信也は言われたとおりにやってみた。

  ワガテハツバサ ワレハトリ
  ワガテハツバサ ワレハトリ
  ワガテハツバサ ワレハトリ


わが手は翼、われは鳥


弾 射音
連載小説
この小説はフィクションです。

(C) 2003 Dan Shannon. All rights reserved



2003/7/13

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