第8回


                     11

「今日はオヤジもオフクロもいないんだ。仕事でいそがしくってさ」
 そういいながら、哲郎がポケットからカギを取り出してマンションのドアをあける。
 ふたりはそのまま哲郎の部屋にはいった。相変わらず、すっきりと整とんされすぎていて、さっぷうけいな感じがする部屋だ。
 信也はまたおりたたみイスにすわらされた。
「ま、またぼくに催眠術をかけるの?」
 信也がそういうと、哲郎はニヤリとバカにしたような笑顔になった。
「催眠術はもういらない。それよりもっといい本があるんだ」
「なに?」
「見たい夢を自由に見られる方法が書いてある本だ。その本に書いてあるとおりにやれば、空を飛ぶ夢はいつでも好きなときに見られる」
 そういいながら、哲郎は本だなから一冊の本を取りだして、信也に手わたした。
「貸してやるよ。好きなだけもってていい。おれはもうそこに書いてある夢の見かたをマスターしちまったからな」
 信也はその本をペラペラとめくってみた。
「でも、この本、すごくむずかしそうだよ。おとなが読む本だよ」
「そんな本ぐらい、かんたんに読めるさ」
 そういって、哲郎は目をつり上げ、信也の顔をのぞきこんだ。
「おまえはおれの子分だろう? 子分は親分のいうとおりにするんだ。いいか、その本に書いてあるとおりにやって、いつでも空を飛ぶ夢を見られるようにするんだ。それができるようになったら、いよいよほんとうに空を飛ぶ方法を教えてやる」
「て、哲郎くんはもう飛べるようになったの?」
 そのことばに、哲郎の目はますますつり上がった。
「そんなことをきくんじゃねえ。おれのことは関係ない。おまえが空を飛びたいっていうから、おれは協力してやってんだ。いいか、がんばって空を飛ぶ夢を見られるようになるんだぞ」
「う、うん。わかった」
 信也は本をカバンにしまった。それを見て、哲郎は目をつり上げるのをやめ、ニコリとしてみせた。
「よし、ならテレビでも見るか?」
「いいよ。もう帰るよ」
 すると哲郎はけたたましく笑った。
「バカだなあ。いまから帰ったら塾をサボったってバレちまうだろう」
 そういって笑いつづけ、しまいにはせきこみはじめた。また、洞くつの底からひびく、おそろしいけものの声のようなふとい音が哲郎ののどの奥から出てくる。哲郎はからだをふたつに折って、苦しそうにせきをしつづけた。
「だいじょうぶ?」
 哲郎はとうとう床にしゃがみこんでしまった。心配になって、信也は立ちあがり、かがみこんで哲郎の背中に手をのせた。
 やっと、哲郎のせきがおさまる。だがあいかわらず苦しそうな顔をしている。哲郎はテーブルのふちをつかみながら、ふらふらと立ちあがった。
「だいじょうぶだよ」
 はきすてるように、哲郎はいった。
「こんなの、なんともない」
 それでも心配で、信也は哲郎の顔をのぞきこんだ。
 そのくちびるの端が、赤くそまっていた。
「て、哲郎くん、それ……」
 信也が哲郎のくちびるを指さすと、哲郎は服のそででくちびるをぬぐった。
 服のそでに目をやって、そこが赤くそまっているのを見ると、哲郎は顔を上げて信也をにらみつけた。
「……だれにもいうんじゃねえぞ」
「でも」
「つべこべいうな! 子分は親分のいうとおりにしてりゃいいんだ」
 おこった顔のまま、哲郎はリモコンでテレビのスイッチを入れた。


                    12

 次の日、哲郎は学校を休んだ。
 その次の日も休んだ。
 それからその次の日も。先生は授業がはじまる前に、哲郎が入院したことを告げた。信也はびっくりした。哲郎がひどくせきこんで、口から血をはいたことを思い出す。
 やっぱり、病気はそうとうひどかったんだ……
 手術をするかもしれないので、みんなが哲郎をお見舞いにこないでほしいと哲郎のおかあさんが連絡してきたと先生が話すのを聞いて、信也はさらにびっくりした。
 手術だって? ひょっとしたら、哲郎は死んでしまうのだろうか。信也は今までクラスのだれかが手術をしなければならないほど重い病気になった経験がなかった。だから、手術をしなければならない病気というのは、死んでしまうほど重い病気なのだと思っていた。信也がまだ幼稚園児だったころ、親戚のおばさんが、手術をしたのにまもなく死んでしまったことがあった。だから、人は手術をするとそのあとで死んでしまうものだとずっと思いこんでいたのだ。
 その日いちにち、信也は授業も上の空で哲郎のことを考えつづけた。
 あんなに病気がひどかったのに、哲郎はずいぶんむりをしていたのだ。学校は休みがちだったけど、ときどき学校に出てくるだけでもたいへんだったのだ。
 それに、あんなにむずかしい本をたくさん読むのもからだによくなかったにちがいない。それどころか、哲郎は信也を子分にしようとして二回も家にまねいてくれた。それもからだによくなかったのだ。手術をしなければならないほどからだが悪いのに、哲郎は子分にしてやるといいながら、ぼくの相手をしてくれたのだ。それでかえってからだを悪くしたのだ。かってに子分にされたことには腹が立ったが、信也はそれをいまになってはずかしく思った。
 もしも哲郎くんのからだがよくなってくれるなら、手術が成功して死なないでくれるなら、信也はこのまま哲郎の子分にされつづけてもいいと思った。
 神様、おねがいです。哲郎くんの子分になります。だから、どうか哲郎くんを死なせないでください。哲郎くんが死ななかったら、ぼくはなんでもします。哲郎くんが貸してくれた本をいっしょうけんめい読んで、空を飛ぶ夢をいつでもスキなように見ることができるようにがんばります。だから、どうかおねがいだから哲郎くんを殺さないでください。授業中でも気もそぞろに、信也は窓から空を見上げていのりつづけた。
 そうだ、哲郎くんをお見舞いにいこう。先生は行ってはいけないといったけど、哲郎くんはきっとぼくの顔を見たら元気を出してくれるにちがいない。よろこんで子分になるといったら、きっと病気もよくなるにちがいない。信也は先生にもクラスのみんなにもだまって、こっそりひとりでお見舞いに行こうと思った。
 でも、どうやったらお見舞いにいけるのか、信也にはまるでわからなかった。先生はどこの病院か、教えてくれないだろう。やっぱり、手術がおわって退院するまで、待たなければならないのだろうか。でもそれでは手おくれになってしまいそうな気がして、信也はものすごくあせった気持ちになってしまうのだった。


                    13

 学校から帰って宿題をし、ごはんを食べてお風呂にはいってから、信也は哲郎が貸してくれた、夢を自由に見る訓練の本をけんめいに読んだ。塾があって夜がおそくなった日は、いつも寝る時間になってもおきつづけていて、ただひたすら読みつづけた。ゲームもいっさいしなかった。本は子供が読むにはむずかしすぎて、おなじ個所をなんどもくりかえし読まなければならなかった。それでもよく理解できなくて、信也はやっとすこしだけ理解できた範囲で、ベッドに横になってからその方法をためしてみた。
 でも、夢を自由に見ることはいっこうにできなかった。朝起きても、夢をぜんぜんおぼえていないこともあれば、たとえおぼえていても、空を飛ぶ夢などではなくて、でたらめな、とりとめのない夢だったりした。見たい夢を見ることはとうていむりに思えた。
 哲郎の夢も見た。手術が失敗して、手術室でお医者さんたちがベッドに横たわった哲郎を中心にして、大さわぎをしている夢だ。それを手術室の外からながめながら、どうしてやることもできなくて、ただおろおろして泣いている夢だった。決してそんな夢を見たいわけではなかった。とても不吉な感じがした。自分がそんな夢を見ると、哲郎の手術が失敗する可能性がますます高くなっていくような気がしてたまらなかった。
 ある日、先生が連絡した。相沢哲郎くんの手術は明日おこなわれることになりました。それから数日はだめですが、回復したらみんなでお見舞いに行きましょう。
 それを聞いて、信也はあせった。手術が失敗したらどうしよう。ぼくがあんな夢を見たからいけないんだ。どうしても、手術の前に哲郎に会って、よろこんで子分になるとしらせなければならないと思った。
 放課後、信也は家には帰らないで、まっすぐに哲郎のマンションに行った。
 インターホンを鳴らすと、哲郎のおかあさんの声が聞こえてきた。哲郎くんの友だちの吉田信也ですと告げると、すぐにドアがひらいた。
「まあ、このあいだのお友だちね。いらしてくれてありがとう。でも、残念だけど、哲郎は入院してていないのよ」
「知ってます」
 信也は必死に言った。
「それから、先生から哲郎くんの手術があしただって聞きました。手術の前に、どうしても会いたいんです。お見舞いさせてください。どこの病院か、教えてください」
 哲郎のおかあさんはすごくこまった顔になった。
「うれしいわ。でもね、あしたの手術にそなえて安静にしてるから、だれも面会できないの。わたしも病院にいてもしょうがないから、いまいったん帰ってきたところなの。ごめんなさいね。手術がおわったら、ぜひお見舞いに来てね」
「でも」
 信也は必死にくいさがろうとした。でも、哲郎のママは疲れた顔に悲しそうな表情をうかべたまま、首を横にふるばかりだった。
「ほんとうに、だれとも会ってはいけないの。お医者さんに止められてるの。吉田くん、だったわね。あなたが来てくれたことは哲郎に伝えておくわ。約束する。だから、とてももうしわけないんだけど、きょうはこのままおうちにお帰りなさい」
 それ以上はなにも言うことができなかった。信也はうなだれ、すごすごと家に帰っていった。
 夜になって、信也はあの本をふたたびひらいて読みはじめた。わからないところがいっぱいあるが、それでも理解できたところだけをつなぎあわせて、夢を自由に見る方法を頭のなかでおさらいしながらベッドにもぐりこんだ。
 目をつぶっても、なかなか眠くならなかった。自分が空を飛んでいるようすをなんども想像しながら、信也は眠くなるのを待った。それでもなかなか眠くならず、時計の秒をきざむ音だけが部屋のなかにいやに大きくひびくのが聞こえるのだった。

わが手は翼、われは鳥


弾 射音
連載小説
この小説はフィクションです。

(C) 2003 Dan Shannon. All rights reserved



2003/7/6

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