第5回


                     6

「哲郎!」
 いきなり、かん高い声がした。
 信也はびっくりして、目をひらいた。
 目の前にひざまずいた哲郎が、ドアのほうをふりかえっている。信也もそのほうへ目をやった。
 哲郎のおかあさんが、こわい顔をして哲郎をにらみつけていた。
「哲郎、ちょっといらっしゃい」
「なんだよ、まったく――」
 哲郎はブツブツ言いながら立ち上がり、ドアのほうへ歩いていった。おかあさんが、哲郎のひじをつかんで廊下へ連れ出した。
 信也はイスにすわったまま、指で両目をこすった。とつぜんのことだったので、心臓がドキドキして、なかなかおさまらない。
 信也とおかあさんの声が、かすかに聞こえてきた。
 また変なおまじないをしてたんじゃないの? ちがうよ、遊んでただけだよ。はじめて来てくれたお友だちに、おかしなことをしちゃだめよ。わかってるよ。どうせ、超能力とか、魔術とか、そんな話をしたんでしょう。そうじゃないよ。テレビの話をしてたんだ――。
 話し声が聞こえなくなり、足音が遠ざかっていった。
 哲郎がもどってきた。
「ちぇっ。いいところだったのに」
 哲郎の姿を見ると、信也はこわくなってしまい、飛び上がるように立ち上がった。
「ぼ、ぼく帰るよ」
「なんだって? まだこれからなんだぜ」
「マ、ママが心配するから」
 信也は哲郎の横をすばやくすりぬけ、ランドセルを取って、部屋を飛び出した。
「おい、待てよ。待てったら!」
 玄関に出る。クツをはくのに失敗して、クツ下のまま下へおりてしまった。
 哲郎があらわれた。
「さよならっ」
 信也はクツのかかとを踏みつぶしたまま、玄関のドアをあけて飛び出した。
 エレベーターは一階でとまっていた。
 信也は階段をかけおり、おもてへ飛び出した。
 そのまま、家の方角へ走っていく。
 走る前から、心臓はドキドキしていた。



                    7

「信也。信也!」
 ママが呼ぶ声がする。信也はうっすらと目をさました。
 首をひねって、ベッド・サイドの時計を見た。いつも目覚ましをかけておく時間を五分もすぎていた。朝ねぼうだ。去年、山へ家族全員でキャンプへ行ったつぎの日いらい、一年半ぶりのことだった。
 ゆうべ、興奮して、あまり眠れなかったのだ。
 上半身だけ、からだを起こす。目はまだしょぼしょぼしている。
 すぐに、哲郎のことを思い出した。
 哲郎が、催眠術をかけようとしたことを。
 こわい目で、信也をにらみすえて。
 おとなだって、あんなこわい目をしているところを見たことはない。信也は哲郎が同級生とはとても思えないほどだった。
 パイロットになったって、空を飛べるわけじゃないという考えかたも、哲郎が言うとなんだかみょうになっとくできてしまうような気がした。
「信也、なにしてるの? 日曜日じゃないのよ。遅刻しちゃうわよ」
 子ども部屋のドアをあけて、腰に両手をあてたママが言う。信也はあわててベッドからおりた。
 着がえをし、顔を洗い、ジャム・トーストとスクランブル・エッグとオレンジジュースの朝食をとりながら、信也はふと、夜中のあいだに空を飛ぶ夢を見たのを思いだした。
 ――いや、そんな気がするだけかもしれない。
 きのう、あんなことがあったから、なにかべつの夢を見たのに、かんちがいしているだけなのかもしれない。
 でも、夢の記憶がだんだんよみがえってくると、つばさもなしに、ただ両腕をひろげて、まるでスーパーマンのように、はるか下の地上を見おろしながらゆっくりと空を飛んでいる情景が見えてくるのだった。
 うすぐらい空と、あい色の空気と、ぼおっと白くひかる雲のかたまりと、はるか下界の街なみ。
 ひょっとしたらぼくは、ほんとうに相沢くんの暗示にかかってしまったのだろうか。
 でも、相沢くんが言う、人間がほんとうに空を飛ぶということの意味は、この夢のようなことなのかもしれない。信也はそう思った。そして、そうやって空を飛ぶ夢を、もっともっとはっきりと見ることができるようになれば、現実にも空を飛べるようになるということなのだろう。
 飛行機やヘリコプターにのらなくたって。
 自分だけの力で、ほかのどんなものの助けもかりずに。
 ――まさか。
 信也は頭を振り、あまりにもとっぴなその考えを追いはらった。
 こんなばかなことを少しでも信じるなんて、どうかしている。
 ひょっとしたら、相沢くんはちょっと頭がへんなのだろうか。あまりつきあわないほうがいいかもしれない。相沢くんはぼくが子分になったと頭からきめつけているけれど、もしもあまりしつこく親分づらするようだったら、きっぱりと、ぼくはきみの子分なんかじゃないと宣言したほうがいいかもしれない。
 でも、それもちょっとかわいそうな気がした。
 あんなことを真剣に信じなければならない事情が、きっと相沢くんにはあるんだ――。
 それはきっと、からだが弱いこととか、学校にあまり来なくて友だちもいないこととか、お家がお金持ちであることとか、いろんなことがふくざつに関係しているにちがいない。
「信也、なにぐずぐず食べてるの?」
 ママがエプロンで手をふきながらこわい目をしているのに気づいて、信也はトーストののこりをあわてて口のなかに押しこみ、立ち上がった。


わが手は翼、われは鳥


弾 射音
連載小説
この小説はフィクションです。

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2003/5/18

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