第10


「あたりまえだ」
「きのう、さんざん説明したじゃないか」
「だけど、どうもまだ納得できない」
「納得しなくていい。あんたはただあたしたちの言うとおりにすればいい」
「そうよ。いまさらなにをぐずぐず言ってんのよ。あんた、きのうはちゃんと佳子にキスするって約束したじゃないのよ」
「そんなに大きな声で言わないでくれ! まわりのガキどもが聞いてるだろう」
 見ると、イカスミの巨体とあたしたち六人のうるわしき乙女たちとのアンバランスが注目を集めたのか、まわりで遊んでいた小学生たちが何人か、ぼおっとつっ立ってこっちを眺めている。
「ここじゃまずい。あっちへ行こう」
 美幸が言った。広場のはずれの、銀杏並木のむこうの家並みの陰を指さしている。
 はるかがイカスミの背中をどんと押してそっちのほうを向かせた。あたしたちはイカスミが逃げださないようにしっかりとりかこみ、ぐずぐずしている佳子の手を秋代がひっぱって、そのほうへ歩いていった。
 やっと、人けのないところへはいって、あたしたちはすこしほっとした。
 しりごみしている佳子をはるかがむりやりイカスミの前に立たせる。
「やかうゆー」
 佳子は顎が胸にくっつくくらいうつむいてしまった。
「さあ、キスしろ。いましろすぐしろ」
「ひひひ」
「ふふふ」
「へへへ」
「ほほほ」
「しかし――」
 イカスミも顔を赤らめて、すこしあとずさりする。
「だめだ。佳子にキスするまではぜったいに帰さんぞ」
「王子様の役じゃないか。ほんとはうれしいんだろうが」
「そんなことはない!」
「嘘をつけ。ほんとにいやだったら、ここまでのこのこやってくるわけないでしょ」
「そうだそうだ。硬派なふりしてるけど、ほんとは根スケなんだろう」
「いつもガールフレンドとやってるみたいにやればいいんだ。かんたんなことじゃないか」
「カノジョとはどこまでいったんだ。そーとーなとこまでいってるんだろう」
「きゃ。えっち」
「この好きもの」
「それともなに? あんたは佳子に恥をかかす気なわけ?」
「佳子だって死ぬほど恥ずかしがってるのよ」
「あんたは苦境におちいっているこのいたいけな少女を救いたくないとでも言うのか。そんなひとでなしだったのか」
「わかった! おねがいだから全員でぎゃんぎゃんわめかないでくれ!」
「やっと降参したか」
「では、はじめよう」
 はるかが佳子の肩をどやしつける。佳子は泣きそうな顔になりながらも、おそるおそるイカスミを見あげた。
 イカスミもほとんどパニック状態だ。
「で、ど、どど、どどどどこにキスするんだ」
「あ、そうだった。それを聞いてなかった」
 あたしはへりろち語で佳子に訊ねた。佳子はまたもやうつむいて、言いにくそうに、ぽつりとつぶやいた。
「けつ……」
「ケ、ケツぅ?!」
 イカスミがのけぞった。
「ちがうちがう!」
 あたしはあわてて叫んだ。
「だから、これはへりろち語なの! お尻って意味で言ったんじゃないのよ」
「でも、いまはっきり『けつ』と」
「もお、なんど説明したらわかるのよ。あいうえおで言葉が一文字ずつずれてるんだから、『けつ』ってのは『くち』のことなのよ」
「ほ、ほんとか?」
「疑い深いわねえ」
「こんなに清らかな乙女が、ケツにキスしろなんて言うと思うか?」
「ヘンタイとでも思ったのか。失礼な」
「わ、わかった」
 イカスミはぐびっ、と唾をのみこむ。
 そして、佳子の肩に手をかけた。
 彼女がまた言った。
「けつぶれ」
「わあっ!」
 イカスミは叫び声をあげて佳子の前からとびのいた。
「ケツ振れだと? もういいかげんにしてくれ!」
「ちがうってば!」
「なにがどうちがうんだ!」
「これもへりろち語なの! ケツ振れじゃないのよ。『けつぶれ』よ、『けつぶれ』。つまり、『くちびる』って言ってるのよ彼女は」
「あったま悪いわねえ」
「頭んなかで一文字ずつ置き換えてみなよ」
「し、信じられん。そんなものはとうてい信じられん」
「でもそうなのっ」
「そ、そうか?」
「そうよ。さあ、はやく」
 はるかは今度はイカスミの肩をどやしつけた。イカスミは気をとりなおし、ふたたび佳子にちかづいた。
 唇を舌で湿す。
「す、するぞ。口にするんだな? 口に――」
 ひたむきな目でイカスミを見あげていた佳子が、いきなり泣きそうな顔になった。
「ふ、ふなう。くちにうにあと」
「どうした?」
「なんて言ったんだ?」
 また騒然となった。
「イカスミが悪い」
 さおりが言った。
「なんでおれが悪いんだ」
「いま、くちにくちにと言っただろう。佳子には、『くちに』は『きたな』という言葉に聞こえてしまうんだ。あんたにきたないと言われたと思って、ショックを受けてるんだ」
「そんなむちゃな!」
「むちゃなと言ったって、事実だからしょうがないだろう。口がきたないからキスしてくれないんだとかんちがいしたんだよ。なんとかしてやれ」
「なんとかしてやれったって」
「きれいだって言ってやりなよ」
「きれい? じゃ、き、きれい」
 イカスミは佳子に言った。
「だめだ! 『きれい』はへりろち語では『くろう』になるんだ」
「そ、そうか。じゃ、くろう。くろうくろう」
 佳子はとたんに、ほっとした笑顔になった。
「くろうくろう。くそう、ほんとになんでおれがこんなに苦労しなきゃならんのだ」
「ぶつぶつ言ってないで、はやくキスしてあげてよ」
「わかった。わかったよ――」
 イカスミが佳子の肩にかけた手に力をいれる。佳子は真剣な表情になって、うるうるの目でイカスミを見あげ、それからかすかにふるえながら瞼を閉じた。
 イカスミが、腰をかがめてそろそろと顔をちかづける。
 佳子は顔を上に向けて、全身の力を抜いた。
 そして、ぽつりとつぶやいた。
「くせー」
「だあっ!」
 イカスミは佳子をつきとばし、むりやりあたしたちの輪を脱した。
「ひどい! あんまりだ! キスしろって言われたから、おれは口臭スプレーまでしてきたんだ。それなのに、なんでこんなことまで言われなきゃならんのだっ!」
「ちがうのよ!」
 あたしも興奮して彼に叫び返した。
「くさいって言ったんじゃないのよ。『キス』って意味なのよ。へりろち語なのよ!」
「嘘だ!」
 イカスミはあたしたちをにらみつけて、挑むような口調で言った。
「へりろち語だとか、五十音がずれてるとか、でたらめなこと言って、おまえらはおれをからかってるんだ」
「そんなことないってば! おねがい、信じてよ!」
「いやだ。ぜったいに信じないからな。おれがその女をふったのがしゃくにさわったもんだから、おまえらはおれに復讐しようとしてるんだ。その手にのるもんか」
「もお! 復讐なんかしないわよお! そんなことしてあたしたちになんの得があるって言うの!」
「あとで学校で言い触らして、おれを笑いものにする気なんだ。くそったれ。おぼえてろよ!」
 イカスミはおもいっきり怖い顔で捨てぜりふを吐くと、そのままダッシュして、行ってしまった。
「ああ、行っちゃった――」
 いきなり百八十五センチの巨体がすごいスピードで向かってきたのでパニックを起こしてきゃーきゃー絶叫しながら逃げまどう小学生たちのあいだを走り去っていくイカスミのうしろ姿を見送りながら、あたしはがっくりと肩を落とした。
「失敗」
「最悪」
「絶望」
「びき。いま。ちんこ!」
 最後のは、さおりだ。両手をメガホンにしてイカスミの背中に向かって叫んだので、小学生たちがさらに騒然となった。
「かかか……」
 うしろでかぼそい声がして、あたしたちはふりかえった。
 佳子が、イカスミにつきとばされたいきおいで地面に尻もちをついたまま、へたりこんでいた。
「かかか……」
 唇をふるわせながら、いまにも泣きだしそうだ。あたしはあわてて彼女の正面にかがみこみ、肩に手をかけた。
「佳子、だいじょうぶ?」
 とっさにふつうの日本語で言ってしまったから、もちろん、彼女には通じない。
 佳子の唇が、だんだんわなわなとふるえはじめる。
 そして、ついに両目から涙がこぼれはじめた。
「ほるわつ……むつほるわつ。かーいかいかいかいかい!」
「え? なんて言ったの?」
 あたしは思わず佳子の顔をのぞきこんだ。だが彼女は「かーいかいかい」と泣き叫ぶだけで、肩をゆさぶっても、まったく反応がない。
「ねえ、さおり。こいつなんて言ってるの?」
 秋代がさおりをふりかえって訊く。
 さおりは腕組みをして佳子を見おろした。
「へりろち語で『みちへりろち。おーあおあおあおあおあ』と言ってるんだ」
「へ?」
 あたしたちは目をまるくした。
 あたしの目の前は、一瞬、まっ白になった。
 さおりを除く全員が、ポカンとして、きょとんとして、唖然として、呆然とした。
 そしてほとんど同時に、あたしたちは叫び声をあげた。
「げげっ!」
「げげげっ!」
「げげげげっ!」
「ぎえーっ!」
 あたしは頭のなかで、ほとんど自動的に佳子の言葉をふつうの日本語に翻訳していた。


むつほるわつ。かーいかいかいかいかい!

みちへりろち。おーあおあおあおあおあ!

またふられた。えーんえんえんえんえん!

「いかん! またひとつずれた!」
 あたしはのけぞって、ほんとうに阿波踊りを踊ってしまった。
 あたしたちは泣きつづける佳子をとりかこみ、絶望的な気持で彼女を眺めた。
 だれひとり言葉を発することもできず、ずいぶん長いあいだ眺めていた。
 いつのまにか小学生たちの喧噪も遠くになり、つめたい風があたしたちのあいだをゆっくりと吹きぬけていった。
 やがて、さおりがぽつりと言う。
「こうなったら、もうこいつは――」
「なに?」
 はるかがさきをうながした。
 さおりはふたたび腕組みをして、低い声でつづける。
「あと四十三回、男にふられるしかない。そしたら、五十音表をひとめぐりして、正常な言葉にもどるだろう」
「ひえ」
 秋代も美幸もはるかもあたしも、泣きそうな顔になってずっこけてしまった。
 あたしたちにとりかこまれ、地面にへたりこんだまま、依然として佳子が泣いている。
「うきせむこい……かーいかいかいかいかい!」
 こうしてあたしたちはこの瞬間から、今度は佳子のへりろち語ならぬほるわつ語をなおすべく、東奔西走するハメにおちいってしまったのだった。
 ぬいなしとつう!


                   
                  お し ま い  
へりろち


弾射音
連載小説
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2002/4/14

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