第12回


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 半年間はあっという間に過ぎた。三年になってさまざまなごたごたにかまけていたつけで、翠の成績は下降線を描く一方だった。弥生との決裂の後、ようやく翠は奮起して勉強を始めた。だが、もはや内申書を書き換えるのには遅すぎた。

 受験前の慌ただしさの中で卒業式を終えた。卒業の感慨など感じている暇はなかった。公立高校の入試を終えて、初めて卒業したのだという実感がわいた。
 公立高校の合格発表の日、それぞれ個人で発表を見に行って、合格した者は中学校に集まることになっていた。
 翠が学校に行ったときは、既にみんな集まっていた。体育館の中は、歓喜の声でいっぱいだった。翠は知子から声をかけられた。
「翠ちゃん、合格したのね」
「あなたも?」
 知子は嬉しそうにうなずいた。知子の受けたのは、超一流校だった。
「おめでとう」
 翠は素直に言った。結局一流校に縁の無かった翠は、知子と随分差がつくことに苦い思いをしていたが、その日は自分でも驚くくらい素直な気持ちになれた。
「弥生さんも合格よ」
 知子が言った。弥生は知子と同じ高校を受けていた。才女の誉れ高き弥生が進む当然の道だった。
「そう。同じ高校ね」
 翠は少し淋しそうに言った。
「元気でね。時々は手紙ちょうだい」
 そう言って翠は手を差し出した。知子はその手を握り返した。
「翠ちゃんも」

 その日の帰り、クラスの仲の良い友人たちと、ファーストフード店で合格祝いをしようということになった。何人かで、笑いさざめきながら翠は通い慣れた通学路を歩いていた。三年間、毎日通った道もこれが最後かと思うと、感慨がこみ上げてきた。
「あらっ」
 一緒に歩いていた映子が突然言った。翠は顔を上げた。映子の視線の向こうに、弥生の後ろ姿があった。弥生と顔見知りだった映子は、翠の止める暇もなく小走りで弥生に駆け寄った。
「舟橋さん」
 弥生が振り向いた。弥生は映子の姿を見、さらにその向こうにいる翠の姿を認めた。翠はとっさに視線をそらした。
「合格したのね、舟橋さん」
 映子が言った。
「ええ」
 弥生が答えた。映子と弥生は、集団から少し離れて一緒に歩きだした。

 困ったことになった、と翠は思った。弥生と決別してから仲良くなった映子は、二人の間にあった出来事を知るはずはなかった。合格して幸せだった気分が、吹き飛んで行くのを翠は感じた。他の友達と、わざとはしゃぎながら翠は歩いて行った。だが、耳は映子と弥生の会話に集中していた。
「超一流校ですものね。すごいわ、舟橋さん」
「そんなことないわ」
「通うのも近いし、楽でしょう」
「そうね、それが助かるわ」

 翠は弥生たちの前を歩きながら、弥生の視線を感じずにはいられなかった。弥生もまた、映子との会話に集中しきれないようだった。まさか、最後の最後になって弥生と会うとは思わなかった。
 翠はふと、道子はどうしたのだろうと思った。道子も公立に合格したと聞いた。弥生の方に引っ張られるようにして行ってしまった道子だったが、二人はどうなっていたのだろう。
 弥生は、おとなしい道子に扱いきれるような人間じゃないとかねがね翠は思っていた。弥生と決裂してから、翠はクラスの友達とうまくやってきたつもりだったが、心の空虚さを埋めることは出来なかった。簡単に腹心の友なんて作れないのだ、と身につまされるように思ったものだ。弥生もまた、第二の腹心の友は作れなかったのかもしれない。先ほど見た弥生の淋しそうな後ろ姿が目に浮かんだ。

 ファーストフード店の前に来ると、映子は言った。
「私たち、合格祝いをするのよ。良かったら、一緒にどう?」
 翠はぎょっとした。弥生と一緒に合格祝いだなんて、冗談じゃない。弥生は、翠の方を見た。翠はまたパッと目をそらした。一瞬の沈黙があった。
「今日は早く帰りたいから」
 弥生が言った。落ち着いた声だった。
「そう。じゃあ。元気でね、舟橋さん」
「あなたも」

 翠は突然振り向きたい衝動に駆られた。何故、こんなにして避けなければならないのか。 弥生は、最後の言葉を言ってから立ち去るのを、ちょっとためらっているようだった。弥生の視線を翠は背中に感じた。振り返るなら、今だ。その後に何が起ころうとも。
 翠は迷い、やがて数秒も経ったかと思われる頃、やっと振り返った。去っていく弥生の後ろ姿が目に入った。淋しい後ろ姿だった。華やかで、いつも自信に満ちた弥生の、あまりに淋しくて頼りなげな後ろ姿だった。このままでは悲しすぎる。あんなに仲の良かった腹心の友なのに、さようならも言わないで別れるなんて。翠は足を一歩踏み出した。その時、映子が声をかけた。
「翠ちゃん、早く入りましょうよ」
 それが、弥生と会った最後だった。


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 レンタルビデオショップを出ると、外は既に暗くなっていた。翠は小さく、長い長いため息をついた。
 女子中学生が笑いさざめきながら通って行った。自分にもあんな時代があったのだなあ、としみじみ翠は思った。
 この道は、あの頃毎日通った道だった。弥生と様々な話をしながら帰ってきた道だった。
 翠は、十メートルぐらい離れたところにある信号に目を向けた。そして、いつもあの信号のところで弥生と別れたのだ。

 高校生になって、「サウンド・オブ・ミュージック」がリバイバル上映された。翠は、うきうきしながら見に行った。高校の友人と一緒だった。一緒に見に行くことを誓った弥生も、あの時「ドレミの歌」を歌った友人たちとも、共に「サウンド・オブ・ミュージック」を見ることはなかった。
 知子たちとは、しばらく連絡を取り合っていたが、月日の流れと共に疎遠になってしまった。弥生は、結局高校二年の時に引っ越したという話を、風の噂で聞いた。そして、自分は今もこの町に住んで、あの時一緒に通った道を毎日歩いている。

 今考えてみれば、翠も大変愚かだった。意地ばかり張って、問題を解決しようとしなかった。そもそも翠は、自分が崇高だと信じていた弥生に認められて、良い気になっていたのだ。翠は平凡な少女だった。それなのに、弥生の腹心の友であろうとして、すごく背伸びをしていた。翠がどんなに努力しても、弥生は翠の手に負える相手ではなかったのだ。 だが、もしかして弥生も、心のどこかで普通の仲良しを求めていたのではないだろうか。精神的つながりで満足するばかりでなく、もっと現実の血の通った交流が欲しかったのかもしれない。

 弥生が泣きながらやってきたとき、弥生の後を追ってどうしたのか、と聞けば良かったのだ。弥生はそれを望んでいたのかもしれない。だが、翠には出来なかった。それが弥生でなく誰か他の友達だったら、追って事情を聞き、慰めの言葉をかけただろう。でも、弥生は翠が尊敬する腹心の友だった。そんな、普通の女の子のようにもめ事で泣いたりするなんて、何だか許せなかった。翠もまた、弥生に現実離れしたものを期待していたのだろう。そのくせ、心のどこかで、弥生が泣きついてくるのを待っていたのだ。弥生が出てきたら、真っ先に自分の所へ来て語り始めるだろう。そうしたら、静かに話を聞いて、優しく慰めの言葉をかけてやろう、と翠は思っていた。二人の心は全くすれ違っていた。
 弥生と最後に会ったとき、何故言葉をかけなかったのか。あれから、しばしば悔やんだものだ。「さようなら」とか「元気でね」とか、一言で良い、何か言っていたら、弥生との思い出はもっときれいなものとして、残っただろう。声をかけられなかったがために、一生苦い思い出となるのだ。

 風が翠の長い髪を弄んだ。翠は手で髪をかきあげた。風の冷たさが、冬の足音を感じさせる。
 翠は、信号のところで立ち止まった。
 弥生と別れるとき、信号が赤で弥生が足止めされると、青に変わるまで話をしながら付き合ったものだった。信号が青に変わると弥生は手を振って去っていく。

 バッグの中で、「サウンド・オブ・ミュージック」のテープが小さな音を立てて揺れた。 今夜はこの映画とじっくり三時間近く付き合うのだ。美しいアルプス、ジュリー・アンドリュースの美しいソプラノ、可愛い七人の子供たち。「ドレミの歌」「エーデルワイス」「すべての山に登れ」……この映画を彩る名曲の数々。
 そしてジュリーがギターを弾き始めたら、一緒に歌うのだ、「ドレミの歌」を。懐かしいトラップファミリーシンガーズの歌声が、翠の頭の中でこだまする。
 ジュリーが子供たちに歌を教えたように、この映画は翠たちに歌うことの楽しさと、それによって生まれる強い絆を教えてくれた。
 翠は今まで、「サウンド・オブ・ミュージック」を見る機会があっても、自分たちのトラップファミリーシンガーズについては、故意に考えないようにしていた。翠にとっては、苦い思い出に通じるからだった。だが、今思い返せば、懐かしい思い出ばかり。

 翠はバッグの中に宝物が入っているかのように、そっとバッグを触った。バッグを通して、温かい物が伝わってくる気がした。

 素晴らしい日々だった。翠は、今心からそう思った。自分は、十年の月日をかけて、やっと山を一つ登ったのかもしれない。
 信号が青に変わった。人々の流れに沿って、翠も足を踏み出した。
 翠は、小さな声で「ドレミの歌」の出だしを口ずさんだ。
「Let's start at the very beginning
A very good place to start」

 空に小さな星が光っていた。星を眺めていた弥生の、満足そうな笑顔が思い出された。
「弥生さん、今でもドレミの歌が歌えますか」 
 翠は星に向かって、心の中で呟いた。

ドレミの歌を歌った頃


桐生 梓
連載小説
この小説はフィクションです。

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2002/12/29

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