第9回


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 修学旅行の後、弥生と顔を合わせるたびに、翠はあの夜の会話を思い出さずにはいられなかった。弥生が再び、クラスで困った立場に置かれているのではないかと気になった。
「弥生さん、クラスではどんな感じ?」
 或る日、翠は思い切って尋ねた。
「どんな、って?」
 弥生は訝しげに問い返した。
「その……うまくいってるかなって」
「あなたほどの人には出会わない」
 弥生は言った。
「それに正直言うと嫌なクラス。ああ、前のクラスが懐かしい」
 弥生は大きなため息をついた。
「また、告げ口したって思われてるのよ。マンガの本を学校に持ってきた子がいたの。規則で禁止されてることじゃない。何故、わからないのかしら」
「『郷に入れば郷に従え』よ」
 翠が静かに言った。
「えっ?」
「うちのクラスも奔放なクラス。規則破りは日常茶飯事。それにめくじらを立てていては生きていけないの」
 弥生は信じられないという表情で聞いていた。翠は少し恥ずかしくなってきた。
「私だってこんな風には思いたくないの。でも、仕方がないじゃない。自分の信じることを実践するのも大切だけど、そのために敵をいっぱい作ってどうするの」
「また、噂になってるの」
 弥生が冷たく言った。翠は返事が出来なかった。
「規則は守るためにあるのよ」
「破るためにあるのかもよ」
 こんな言葉が口から出たことに、翠自身が驚いていた。弥生は唇をキッと結んだまま、何も言わなかった。何だか、弥生が遠くに離れてしまったような気がした。
「ごめんなさい、弥生さん」
 翠はしおらしく謝った。その言葉を聞いても、弥生の表情は変わらなかった。

 重い空気が流れた。弥生と共に過ごして来た日々の中で、こんな気まずい思いをしたのは初めてだった。
 翠は、弥生と二人で過ごす時間を以前ほど楽しいとは思わなくなってきたことに気がついていた。いや、むしろ、気詰まりにさえ思った。
 周りに合わせることを覚え、妥協することを覚え、翠は処世術を学びつつあった。決して、本意ではなくても、クラスの中で孤立せずに生きて行くためには必要なことだった。
 あの修学旅行の夜、弥生への悪口を聞きながら、翠は思ったのだ。自分は悪口の対象にされたくない、と。翠は弥生ほど、強くはなかった。正しい物を正しいと主張するために、孤立する勇気などなかったのだ。


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 弥生との会話の後、何となく気まずくなって翠は弥生と顔を合わせるのを避けるようになった。やがて、何日も顔を合わせない日が続くようになった。そうなると、ますます会いにくくなる。悪循環だった。翠はクラスでの付き合いに没頭するようになった。

 ある日曜日に、翠はクラスの友人たちと共に街に買い物に出かけた。
 服のウィンドーショッピングを楽しみ、ファンシーグッズを買い、翠たちは一日を大いに楽しんだ。

 去年は確かに楽しい一年だったが、弥生と街に出て遊ぶということは全くなかった。普通の女子中学生が好んですることを、今初めて翠は体験していた。それは、高尚さはどこにもなかったが、肩の凝らない生活だった。自分を飾ることもないし、背伸びをする必要もない。現実の生活に、文学もロマンもポリシーも必要なかった。

 買い物に疲れた翠たちは、喫茶店に入った。
「あー、疲れた」
 奈美子が椅子にもたれかかりながら言った。
「こんなに歩いたの、久しぶりね」
 翠も満足そうに言った。
「あの服、良かったなあ」
 涼子が、未練がましく言った。
「あんなに高くちゃね」
 涼子が大きくため息をついたとき、BGMが変わった。軽快なテンポで「ドレミの歌」が流れてきた。翠は、ジュースをストローでかき回していた手を止めた。歌は入っていなかったが、この曲を聞くのは久しぶりだった。翠は、知らず知らずのうちに小さな声で、ハミングし出した。
 その様子を見て、由美が言った。
「お得意の曲じゃない」
 翠は少し恥ずかしそうに笑った。
「そういえばさあ、最近、舟橋さんって来ないんじゃない」
 由美が思い出したようにつけ加えた。翠は、ハッとしてハミングをやめた。
「そうねえ。前は毎日、現れてたっけ」
 涼子も言った。
「喧嘩した?」
 由美が、翠の目をのぞき込むように言った。
「ううん。そんなことないわ」
 翠は、自分でも意外なくらい一生懸命に否定した。
「舟橋さんってさ、すごく秀才なんだってね」
 奈美子が言った。
「やだあ、知らなかったの」
 涼子が奈美子に向かって言った。
「どんなもんなの。学年一番とか?」
 奈美子が興味津々といった様子で翠に聞いた。
「知らないわ。成績の話、しないから」

 弥生は、自分の成績の話をしなかった。恐らく、素晴らしい順位を取っているはずだったが、それを自慢することはなかった。弥生が成績に対する大きな野心を抱いていることを、翠は知っていた。だが、弥生はそれを友達づきあいの中に持ち込むことはなかった。
「だけどさあ、ちょっと驚いたんだ。翠ちゃんの友達がそんな大物だって知ったときは」
 奈美子がしみじみ言った。
「私もちょっと驚いてる」
 翠が、微かに笑いながら言った。
 正直な気持ちだった。彼女たちからはすごい大物に見える人物と、自分は友人なのだと思うと翠は誇らしい気がした。

 翠の心の中に、弥生の面影が浮かんだ。もう、何日も弥生に会っていない。
 「ドレミの歌」の響きが心に懐かしく迫ってくる。
 自分は何をしているのだろう、と突然翠は思った。
 確かに、今の生活はそれなりに楽しいかもしれない。友人たちだって好きだ。だが、自分はかつてそうした普通の友達づきあいに飽き足りなくなって、弥生を求めたのだ。

 翠は、話に熱中している友人たちを見た。彼女たちは、楽しい生活を約束してくれる。それに引き換え、弥生は必ずしもいつも翠を楽しませてくれるわけではなかった。時には激しい口調でやり込められることもある。あるいは、考えの甘さを指摘されることだってある。だが、そうした全てを乗り越えて翠は成長してきた。弥生は、間違いなく自分を高めてくれた。

 今初めて、弥生の偉大さがわかってきた。弥生としばらく離れてみて、翠は弥生の価値を本当に理解することが出来たのだ。弥生と離れてからでさえ、何かがあると、弥生ならどうするだろう、弥生ならどう考えるだろう、と翠はすぐに思ったものだ。弥生の考える通りを実践すれば間違いはない。いつのまにか、弥生は翠の指針者になっていた。この一年半の間に、弥生の存在がこんなに大きくなっていたのかと、翠は驚いた。指針者を失いかけて、今の翠は宙ぶらりんの状態だった。弥生と話したかった。たまらなく弥生が懐かしくなってきた。
 喫茶店では、既にBGMが変わっていたが、翠の心の中ではまだ「ドレミの歌」が鳴っていた。               
                      
ドレミの歌を歌った頃


桐生 梓
連載小説
この小説はフィクションです。

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2002/12/1

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