第7回


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 幾人か不平を言う者もあったが、クラスメートのほとんどが、快く原稿の書き直しに協力してくれた。知子たちグループの仲間は休み時間を利用して、文集の編集に力を貸してくれた。再制作は順調に進んでいたが、何しろ時間が足りなかった。弥生と翠は、日曜日に出校して編集作業を進めることにした。修了式は二日後だった。その日の内に編集を終わり、印刷にとりかかる予定だった。

 日曜日の学校は、気味が悪いくらいシーンとしていた。印刷に便利なように、印刷室の側の会議室を借りて作業をすることになっていた。
 会議室にはすでに電気がついていた。中では、弥生が一人で机に向かって編集作業を進めていた。ドアの開いた音で、弥生は頭を上げた。
「おはよう、弥生さん。早かったのね」
「おはよう、翠ちゃん。御苦労様」
「進み具合は?」
「あと少しで終わり」
「じゃあ、いよいよ印刷ね」
 翠が弾んだ声で言った。
「印刷って大変なんだから」
 弥生が言った。
「ずっと、ついてなきゃいけないし。それに、印刷したのを運んで、製本しなきゃ」
「もう一息じゃない」
 翠が言った。
「そうね」
 弥生が呆れたというふうに、笑って言った。
「この部屋、修了式まで使って良いって先生が言って下さったわ」
「良かった。ここなら楽よね。それに、印刷した物をずっと置いておけるわ」
 弥生がうなずいた。
「出来た。見て」
 弥生は、書いていた紙を翠の方に差し出した。
 それは、文集の表紙で花が大きく描かれてあり、その上に飾り文字で大きくEDELWEISSと書いてあった。
「これって、エーデルワイス?」
 翠が、花を指しながら聞いた。弥生の頬が赤くなった。
「似てない?」
 弥生が、自信なげに言った。
「えっ、知らないわよ。本物のエーデルワイス、見たことないし」
「植物図鑑見て描いたんだけどなあ」
 弥生が、紙を手に取りしげしげと眺めながら言った。
「上出来。きれいに描けてる」
 翠が笑いながら言った。弥生の顔がパッと輝いた。
「そう思う?」
 弥生は、あどけないくらい嬉しそうに聞いた。
「思う、思う。それに誰も本物見たことないだろうしね」
 翠は、弥生の手にする表紙を見つめた。
「でも、サウンド・オブ・ミュージックづけになっちゃうなあ」
「編集委員の特権よ」
 弥生が笑って答えた。
 翠は鞄の中から、レポート用紙を取り出した。
「弥生さんが言ってくれた後書き、書いてみたの」
「あら、読んでよ」
 弥生は、まだ表紙の花を見つめながら言った。
「読むの?」
 翠は照れくさそうに言った。
「そうよ」
 
 翠は、紙を目に近づけた。ちらと、弥生を見ると、弥生は表紙の絵に手を加えているところだった。
「文集、エーデルワイスをお届けします。私たちが、このクラスで過ごした一年間の総決算です。一年間、色々なことがありました。楽しいことも、嫌なことも。でも、過ぎてしまえば皆、思い出です。時が経って、この文集を再び開くとき、思い出して下さい。このクラスのことを、クラスメートのことを。共に過ごした青春の一年を。楽しかったこと、苦しかったこと、辛かったこと。そして、もう一度あなたの人生に立ち向かって下さい。あなたのこれからの人生に幸多かれと祈ります。最後にこの詩を贈ります」
 翠は、深く息をついた。弥生は手を休めてじっと聞いていた。
「すべての山を登りなさい
 高いところも低いところもたずね歩き、
 すべての小道をたどり、
 知っているどんな道も歩くのです
 すべての山を登りなさい
 すべての流れを渡り、
 すべての虹を追って、
 あなたの夢を見いだしなさい」
 弥生が大きなため息をついた。翠は不安そうに弥生を見た。
「気に入らない?」
 弥生は大きくかぶりを振った。
「ううん。まさか」
「サウンド・オブ・ミュージックづけになっちゃう理由、わかったでしょう」
「そうね。『すべての山に登れ』まで出てきちゃね」
「まずいかなあ」
 翠が心もとなげに言った。
「私はね、この歌があの映画の中で一番言いたいことじゃないのかと思うのよ」
 弥生が言った。
「ラストシーンで、トラップ一家がアルプスを越えていく時、この歌が流れるでしょう。ナチに屈服することを拒んで、あの一家は山を登るのよね。自分の信念を守るためには、きっと何回でも、そう、すべての山を登っていくんだと思う。そんな風に守る物があるって素敵だと思う」
「私たちの人生でも、そういう場面に出会うかもね」
 翠が言った。
「その時は、翠ちゃんの書いたこの後書きを開くわ」
 弥生が微笑んだ。そして、恥ずかしそうに呟いた。
「編集委員をして、やっぱり良かった」
 翠は弥生の方を見た。弥生はさっぱりした表情をしていた。

 そういえば、心無しか、最近弥生のあの試すような表情に出会わない、とふと翠は思った。翠自身も、いつも試されているような落ち着かない思いを味わうことがなかった。前ほどのきつさを出すことも滅多になく、翠は弥生といると落ち着いていられた。
「『エーデルワイス』『すべての山に登れ』……『サウンド・オブ・ミュージック』は私たちの青春ね」
 弥生は翠の方を見てにっこり笑った。
「ね、歌おうか。久しぶりに。ドレミ……」
 弥生は翠の返事を待たずに歌いだした。
「Doe-a deer, a female deer
Ray-a drop of golden sun
Me-a name I call myself
Far-a long, long way to run」
 弥生が翠を見た。翠も弥生を見た。二人の心に温かい物が流れた。
「Sew-a needle pulling thread
La-a note to follow sew
Tea-a drink with jam and bread
That will bring us back to do!」
 二人は高らかに歌い上げた。突然拍手が起きた。翠と弥生はびっくりして、振り返った。

「素敵だった」
 部屋の後ろに知子が立っていた。知子だけではなかった。道子や理恵子、他のトラップファミリーシンガーズの面々、秋江や陽子や他のクラスメート総勢十人以上が一緒にいた。弥生も翠もびっくりして声が出なかった。
「おはよう。朝から素晴らしい合唱を聞かせてもらったわ」
 知子が笑いながら言った。
「ここだったら良いよね。印刷室の近くで」
 理恵子が部屋の中を見回しながら言った。翠と弥生は顔を見合わせた。知子たちは、驚いている翠たちにはお構いなしに近づいてきた。そして、置いてあった文集の原稿をパラパラめくり始めた。
「さて、何をしたら良い?」
 知子が再び言った。
「手伝いにきてくれたの?」
 ようやく、翠が口を開いた。
「当たり前じゃない。日曜の朝早くから、何しに来るのよ」
 知子が笑いながら言った。
「だから、きのうの電話……。明日、何時に行くのか、なんて」
 翠は知子に向かって言った。
「彼女が気にしてたのよ。手伝わなくっていいのか、って」
 そう言って、知子は理恵子の方を見た。
「だって、二人だけじゃ大変じゃない」
 理恵子が少し照れて言った。
「日曜日なのに……」
 今まで口をつぐんでいた弥生が少しかすれた声で言った。

「私と陽子は家が近いからね」
 秋江が言った。
 翠の心は感激でいっぱいだった。感謝を言葉に表したいと思った。だが、どんな言葉も思いつかない。何より、翠の目が気持ちを表していたのだろう。知子が翠を見て優しく微笑んだ。
「ありがとう」
 辛うじて、翠が口に出したのはこの一言だけだった。
「やだ。翠ちゃん。改まって言われると照れるなあ。翠ちゃんには、良くしてもらったもんね」
 秋江が言いながら、同意を求めるように陽子を見た。。
「いつも、宿題見せてもらったっけ」
 陽子も言った。
「駄目だって、陽子。秀才たちの前でそんなこと言っちゃ」
 秋江がたしなめるように言った。みんなが笑った。この笑いが、その場の空気をときほぐした。
「一日中いいからさ。印刷かかれるかな」 
 理恵子が言った。
「悪いわ、一日じゃあ」
 翠が言った。
「いいって。どうせ、ボーイフレンドもいないし、お金もないし。暇だけは、たーっぷりあるんだから」
 陽子がおどけたように言って、再びみんなの笑いを誘った。
 翠は感激で胸が熱くなるのを感じた。

 その時、不意にすすり泣きの声が聞こえてきた。驚いて振り返ると、弥生がしきりにハンカチを目に当てて、嗚咽をこらえようとしていた。
「弥生さん」
 翠が声をかけた。弥生の嗚咽はますます激しくなった。みんな、シーンとなった。翠は弥生の側に近づいた。戸惑いながらも、翠はもう一度、声をかけた。
「弥生さん、どうしたの」
「私、こんな……」
 弥生はすすり泣きながらささやくような声で言った。
「え?」
「みんな、来てくれるなんて、思ってもいなかった。嬉しくて」
 弥生は声を絞り出すようにして言った。翠は、弥生を見、そしてみんなの方を見た。知子が、理恵子が、道子が当惑したようにこちらを見ている。だが、彼女たちの目には友情が溢れていた。グループを離れて疎遠になってしまった秋江たちも又、優しい目で翠たちを見ていた。
 人間って素晴らしい、友情って素晴らしい。翠はしみじみ思った。一緒に遊ぶだけが友達じゃない。困ったときに助け合うのが友達なのだ、とこの人たちは身をもって教えてくれた。
 この仲間たちとの心優しい日々が、弥生を変えていったのかもしれない。弥生からきつい刺を抜き、いつも人を試すようなあのいたずらっぽい眼差しをやわらげていったのかもしれない。そして、翠も又、この人たちと一緒だったから、楽しい日々を過ごせ、弥生と腹心の友になるくらい自分を高めることが出来たのだ。
 すすり泣きがおさまってくると、弥生はハンカチを目から離し、長い長いため息をついた。泣きはらした目が真っ赤だった。
「ごめんなさい。あなたの腹心の友は恐ろしく単純ね」
 弥生は言った。
 弥生の泣きはらした目も、恥ずかしそうに笑った顔も、翠は美しいと思った。


 修了式の日の朝に、ぎりぎり出来上がった文集を、それぞれの手に残し、二年のクラスは解散した。
 その朝、最後の製本にかかるために弥生と翠は朝早く学校に来たが、その時もまた、友人たちは一人二人と早くから応援に駆けつけてくれた。やがて、クラスの女子全員が会議室に揃い、製本を完成した。最後の一冊が出来たとき、会議室にいた女の子たちは翠と弥生に拍手を贈ってくれた。最後の一冊を抱きしめた弥生の目には、また涙が光っていた。
 翠はみんなにこそ拍手を贈りたいと思った。文集の編集委員は翠と弥生の二人だけということになっていたが、実際には何と多くの人の手を借りたことだろうか。
 翠はみんなの顔を見回した。休みの日に出校したり、放課後毎日残って手伝ってくれた友子や道子や理恵子たち。他の女の子たちにも呼びかけてくれた秋江や陽子たち。それに応えて、朝早くから出てきてくれたクラスメートたち。
 翠は弥生の方を見た。弥生は感激していた。翠にははっきりとわかった。どちらかといえば、いつも一人悠々自適で我が道を行っていた弥生が、恐らく初めて体験した挫折であり、そしてまた恐らく初めて体験した友情の尊さだったろう。文集は、友情が打ち立てた金字塔だった。翠は心からそう思った。

                      
ドレミの歌を歌った頃


桐生 梓
連載小説
この小説はフィクションです。

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2002/11/16

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