第6回


                     9

 三月が近づくと、別れの恐怖が翠の胸を締め付けるようになった。三年になればクラスは変わる。楽しく過ごしてきた仲間たちと別れなければならない。勿論、弥生とも。
 弥生も翠も意識的にクラス変えの話は避けていた。ずっとこのクラスのままでいたい。学年末が近づくと、多かれ少なかれ友達と別れたくないと思ったものだが、今回は格別にその思いが強かった。

 ある日の国語の授業で、急に先生が言った。
「国語の授業の締めくくりに文集を作ろうと思います。クラス全員に何でも好きなことを書いてもらいます」
 数人の生徒から不満の声があがった。先生はそれを見て苦笑した。
「文集を作ろうって言うと、必ず嫌がる子がいるわね」
「面倒くさーい」
 男子生徒が言った。
「でもね、何年も経ったとき、きっと懐かしく思う日が来るわよ。作っておいて良かったって思うはずよ。中学二年の時の自分はこんなことを考えていたのか。友達はこんなことを考えていたのか、って懐かしくなると思うわ」
 翠は先生の一言一言を噛みしめるように聞いていた。
「編集委員になっても良いと思う人いる?」 
先生が聞いた。教室の中がざわざわし始めた。みんな、周りを見回して様子をうかがっている。
「翠ちゃん、翠ちゃん」
 弥生の弾むような声が聞こえた。翠は後ろを振り向いた。翠の二つ後ろに座っている弥生は頬を紅潮させて、しきりに翠に向かって手を振っていた。
「やりましょうよ」
 弥生が大きな声で言った。周りの子たちが二人の方を見た。
「ね、やりましょう」
 弥生は周りにはお構いなく言った。
「文集よ。私たちにぴったりじゃない」
 翠はうなずいた。弥生の押しの強さに勝てないことはわかっていたし、翠自身も編集委員という仕事が好きだった。
 弥生はにっこりして、すぐに手を上げた。翠も慌てて前に向き直ると手を上げた。


 編集委員の仕事は面白かった。生徒たちはそれぞれ好きなことを書いて提出する。それをまず校正し、字数を割り出し、ページ配分を決める。改めて、印刷原紙に書き直してもらい印刷して綴じる。レイアウト上、余分のスペースが出ると、そこは弥生と翠が自由に使った。好きな詩や言葉を書いたり、本や映画の紹介をしたり、弥生は自作の詩を載せた。 三月も半ばに入ると、ほとんどの原稿が揃い、いよいよ印刷にかかろうというところまで来ていた。

 そんなある日、弥生と翠は国語の先生に呼ばれた。
「実は困ったことになったのよ」
 先生は言いにくそうに切り出した。翠の胸はドキドキし始めた。文集の制作に何かトラブルが起きたのではなかろうか。隣に立つ弥生の顔にも、さすがに不安の色が浮かんでいた。
「今使っている印刷の原紙ね、使えなくなってしまって」
 最初、翠には言葉の意味が理解できなかった。
「あの紙を印刷する機械が壊れてしまったの。でもね、他の紙でなら印刷できるのよ」
 そう言って先生は、机の上にあった別の原紙を翠たちに見せた。
「これの機械なら使えるの。みんなに、この紙に書き直してもらいたいのよ」
 弥生と翠は顔を見合わせた。意味がようやくわかってきた。
「でも、先生、原稿はもうほとんど集まっていて、後は印刷すればいいだけになってるんですよ」
 弥生が言った。
「空いているスペースは、私たちのコラムやみんなに書いてもらった絵なんかで埋まってるし」
「わかってるわ」
 先生は悲しそうに言った。
「あなたたち、とても頑張ってくれて、予想外に早く完成しそうだなって、私も思っていたのよ。でも、機械の故障だけはどうしようもないの。私で修理できるものなら、とっくにそうしてるわ」
 先生は弥生と翠の目をまっすぐに見た。
「ごめんなさいね」
 国語の先生だけあって、文学に造詣が深くて、教科書以外の作品や作家についてもよく授業中に話してくれた。それに、とてもさっぱりした性格で、弥生も翠も先生が大好きだった。
「運が悪いんですね」
 翠が静かに言った。
「そうなの」
 先生が言った。
「クラスのみんなには、今日の授業の時に先生から理由を話して、もう一度協力を仰ぎます。あなたたちにはもう一度一からやり直してもらわなくてはならないわ。でも、せっかくの文集ですもの、何とかして完成させたいの。お願いね」
 弥生は悲しそうな顔で下を向いた。いつも、自信に満ち溢れているような弥生には珍しいことだった。
「精一杯のことをします」
 翠が答えた。


 職員室からの帰りはまるでお通夜のようだった。弥生は一言も口を聞かなかった。
「弥生さん」
 翠は打ちひしがれたような弥生に不安になって声をかけた。弥生は返事をしなかった。
「ねえ、弥生さん」
 翠はもう一度、声をかけた。
「翠ちゃんには悪いことをしたと思ってるわ」
「え?」
 弥生の意外な言葉に、翠は思わず聞き返した。
「私が誘ったんですものね。文集委員に。こんなことになるなんて思わなかったのよ」
「運が悪かったんだって。仕様がないじゃないの」
「やり直すつもり?」
 弥生が聞いた。
「ええ。だって、そうでしょう?」
「本気で?」
 翠はまじまじと弥生を見つめた。いつもの活気と自信に溢れた弥生はどこかに行ってしまったかのごとく、今日の弥生は頼りなげだった。
「修了式まで、あと一週間よ。できると思うの」
 弥生は吐き捨てるように言った。
 こんな弥生を見るのは初めてだった。弥生はいつもエリートコースを歩いてきて、成功の味しか知らないから困難に出会ったときに、思いのほか弱いのかもしれない、と翠はふと思った。

 文集のスケジュールは弥生の中で完全に出来上がっていた。それに従って弥生は行動してきて、完成は目前だった。それが、突然根底から崩れたのだ。予想外の出来事に弥生は完全にパニックに陥ったようだった。 翠の方は、弥生ほど綿密なスケジュールを考えてはいなかった。スケジュールは弥生に任せておけばいいという考えもあったのかもしれない。ただ、毎日の作業に一生懸命になり、それを楽しんでいた。
「できるわよ」
 翠は言った。
「あなたって楽観的ね。のんき過ぎるんじゃないの」
 弥生は厳しい口調で言った。
「私は楽観的よ。知ってるくせに。あと、一週間あればできるわ」
 弥生は激しく首を振った。
「できないわ。やめてしまったほうがいいわ」
「途中で投げ出すの。弥生さんらしくもない。いつも、何にでも一生懸命で自信満々なのはあなたじゃない。中途半端は嫌いだっていつも言ってるじゃない」
「できないことはできないとも言ってるわ」 
弥生は言った。
「私は自分に出来ると思うことしか引き受けないわ。今度のことは、計算外よ」
「弥生さん」
 翠が悲しそうに言った。
「あと一週間。私たちが同じクラスで過ごせるのもあと一週間よ」
 弥生の頬がぴくりと動いた。
「頑張りましょうよ。私たち、この一年とても楽しく過ごしてきたじゃない。ドレミの歌を歌ったり、オーディションにまで応募したり、今までで一番充実した一年だったと思ってるわ。最後を飾りたいの。私とあなたで。投げ出さないで、弥生さん。あなたはいつも最後の最後まで頑張る人じゃない。文集を完成させましょう。修了式の朝までに」
 弥生は小さなため息をついて空を見上げた。良く晴れ上がった空に、一筋の白い雲が流れていた。弥生は無言でしばらくそれを見ていた。
「翠ちゃん、強くなったわね」
 やがて、弥生はポツリと言った。
「弥生さんの影響よ」
 翠が笑って答えた。


                      
ドレミの歌を歌った頃


桐生 梓
連載小説
この小説はフィクションです。

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2002/11/9

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