第5回


                      8

 「サウンド・オブ・ミュージック」がテレビで放送された翌日、弥生は学校に来るなり翠に向かって言った。
「きのう、見た?」
 これだけで十分だった。翠は嬉しそうにうなずいた。
「最高だったわね。」
 弥生は夢見るように言った。翠は英語の教科書を持ち出してきて、弥生に見せた。
「弥生さん、知ってる?」
 教科書には「ドレミの歌」の英語の歌詞が載っていた。
「映画が終わった後、これ見て歌っちゃったわ。」
 翠は言った。弥生は教科書を見つめて呟いた。
「そうか。すごい。」
「え?」
 翠が聞き返す間もなく、弥生は歌い始めた。「Doe-a deer, a female deer,
Ray-a drop of golden sun」
 ソプラノのきれいな声だった。発音は勿論抜群だった。グループの他の子たちも集まってきた。
「サウンド・オブ・ミュージック、見たのね。」
 知子が笑いながら言った。知子も成績優秀で文学を愛する少女だった。物静かだが、ちょっと皮肉屋ではっきり言うところもあって、最初のうち、翠は何度か知子と喧嘩したものだが、いつのまにか知子のはっきりした性格に逆に好感を持つようになっていた。
「歌わない?」
 弥生が茶目っ気を込めて言った。
「ドレミの歌、練習しましょうよ。」
 それが始まりだった。

 文化祭のレセプションのオーディションに応募しようと言い出したのも弥生だった。その頃には、もう上手に「ドレミの歌」を歌えるようになっていた。翠をはじめ、グループの仲間は呆気にとられた。
「みんなで一緒の舞台に立つなんて最高の思い出になるわよ。」
 弥生は言った。
 グループの仲間たちは、みんなどちらかと言えば地味な方だったので、誰も乗り気にはならなかった。再び、弥生は言った。
「私たち、こうして出会って、夢中になれる『サウンド・オブ・ミュージック』という映画にも出会ったわ。そして、その歌をマスターした。こんなに夢中になれる物を持てたって幸せだと思わない?一緒に夢中になれる仲間を持てたことも。みんなで一つのことを成し遂げたって思い出を作りましょうよ。この一年を絶対忘れられないものにしたいの。」

 自分たちのグループと、比較的仲の良かった他のグループを誘って、八人の合唱隊が出来た。映画の中の一家の名前を拝借して、「トラップファミリーシンガーズ」と名付けた。弥生がマリア先生の役をして、他の七人が子供たちの役だった。背の順に並んで、大きい方から年長の子供の役を割り振った。  歌うのは「ドレミの歌」と「エーデルワイス」。
 弥生は演出にも念を入れた。子どもたちはそれぞれシからドまでの音を一人一つずつ受け持つことになった。途中の部分で、「ドミミ、ミソソ……」と歌うとき、ドのパートの子がドと言い、ミのパートの子がミミと言うようにしてつなげていくのだ。だが、なかなかうまくつながらなくて、いつも途切れ途切れになってしまい苦労した。
 練習はいつも放課後、教室の中や、時には校舎の裏庭で行った。弥生に引きずられるようにして始めた練習だったが、やがてみんな真剣になってきた。みんなで思いきり歌うのが楽しかった。オーディションという目的が出来たのも、みんなの心を一つにするのに役立った。みんな何か一生懸命になれる物を求めていたのかもしれない。弥生さえも。思春期特有の、強い仲間意識に酔っていた。思えば、一番楽しい時期だった。

 オーディションの当日は、良く晴れた日で抜けるような青空が広がっていた。体育館は、審査員の生徒会役員と先生たち、オーディションを受ける生徒たちでざわざわしていた。 舞台の袖で出番を待っている翠たちは落ち着かなかった。一人ぶつぶつと歌詞の復習をしている子もいた。弥生だけはいつもの通り悠然と構えていた。先生役の弥生はソロで歌う部分も多いし、何しろ一人で出だしを歌わなければならないのだ。だが、そんなことは弥生にとってプレッシャーの材料にはならないようだった。
「弥生さん、怖くないの。」
 愚問だと知りながらも、翠は聞かずにはいられなかった。
「怖くなんかないわ。」
 弥生は笑いながら答えた。みんなが弥生の方を見た。
「私たち、一生懸命練習してきたじゃないの。あとは全力を尽くせばいいのよ。Do your best!よ。」
 弥生の自信が、翠には頼もしく思え、同時に少し怖かった。

 結局、翠たちのオーディションは失敗に終わった。歌も演出もうまくいったのだが、合格までには至らなかった。八人で映画の真似をして英語の歌を歌ったところで、本人たちの自己満足でしかなく、観客を楽しませる舞台には程遠かった。
 だが、オーディションには落ちても、とてもさわやかな気持ちだった。一生懸命練習した充実感とそれによって深まった仲間との連帯感は何よりの収穫だった。最初に弥生の言った通り、翠たちは最高の思い出を作ることに成功したのだ。
 オーディションが終わって二人になったとき、弥生は上気した顔で言った。
「チャレンジして良かった。そう思うでしょう?」
「ええ。」
 翠はにっこり笑ってうなずいた。
「こんな経験ははじめて。こんな素晴らしい仲間を持ったのもはじめて。あなたといると素晴らしいことばかり。」
「おおげさだわ、弥生さん。」
 弥生は激しくかぶりを振った。
「ううん。本当よ。あなたと会って良かった。あなたと友達に、それも腹心の友になれて、私ってすごく好運だと思う。」
 弥生の目は真剣そのものだった。
「翠ちゃんは自分では気付かないのかもしれない。歌ってる時のあなたって素敵よ。それより素敵なのは、新しい歌を覚えようとしている時のあなた。真剣そのもので、目が輝いている。それを見てると、あなたって将来、立派なことを成し遂げるって思うわ。」
「それは弥生さんでしょう。」
「いいえ、あなたよ。私の道とあなたの道は今は近いところにあると思うの。腹心の友ですものね。誰よりも近いところにあるのよ。でも、将来あなたが立派になったら、私たちの道は離れてしまうわよね。それでも、出来たら私たちは腹心の友でいたいと思うの。」
 翠は弥生を見た。いつもの、からかうような、試すような光は弥生の目にはなかった。
「そうなるのはあなただと思うけど、」
 翠はゆっくり言った。
「私はあなたに腹心の友でいて欲しい。出会えて良かったと思うし、ドレミの歌を歌えて良かったと思う。大人になっても、絶対忘れられないでしょうね。」
 弥生は翠の手を取った。
「約束よ、二人は大きくなっても腹心の友でいること。」
「約束するわ。」
 翠は言った。
「それに『サウンド・オブ・ミュージック』がリバイバル上映されたら、絶対一緒に見に行くこと。」
 弥生は笑いながら言った。目にはいたずらっぽい光が戻っていた。
「約束するわ。絶対よ。映画館で見たら素敵でしょうね。」
 翠は夢見るように言った。
「それにね、弥生さん。いつか、行きましょうよ。ザルツブルグ、サウンド・オブ・ミュージックのふるさとへ。」
 弥生の顔がパッと輝いた。
「なんて素敵なことを言ってくれるの。ザルツブルグ、あなたと二人でザルツブルグ。素晴らしいじゃないの。」
 弥生が小指を出した。
「指切りよ。いつか一緒に行きましょう。ザルツブルグへ。ミラベル庭園に行ってドレミの歌を歌うのよ。」
 翠も指を出した。二人の指が絡み合った。二人の目はお互いに対する信頼感で溢れていた。



                      
ドレミの歌を歌った頃


桐生 梓
連載小説
この小説はフィクションです。

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2002/11/2

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