上杉神社 (2005年5月21日撮影) C-750UZ
上杉神社は米沢藩祖である上杉謙信を祀る神社で、明治5年に建立されました。
大正8年に米沢大火で消失しましたが、同12年に再建しました。
境内には稽照殿や市立上杉博物館があり、重要文化財、美術品など数多く収蔵、展示されています。

米沢史跡案内図

上杉博物館



松岬神社
上杉氏二代(初代藩主)の景勝、十代で米沢中興の名君鷹山公、鷹山公の師細井平洲、米沢建設の恩人直江兼継、米沢藩復興の功臣竹俣当綱、莅戸善政の六柱を祭神とする。
明治35年上杉神社の摂社として二の丸世子御殿跡に創建。

神社のわきは公園になっています

上杉神社方面へ進みます

正面参道 舞鶴橋付近の様子

舞鶴橋

堀の向こうは上杉記念館

本殿へ続く参道
この左手には伊達政宗生誕の地や上杉鷹山像が、右手には臨泉閣休憩所、上杉謙信公像があります。

臨泉閣休憩所

松が岬公園案内図

米沢城
米沢城は、東北の歴史上たびたび表舞台の役割を果たしている。
米沢城が築かれたのは鎌倉時代の初期(約八百年前)といわれているが、その起源は明確でない。
鎌倉幕府の重鎮大江広元の子時広が、源頼朝の命により置賜地方(長井の庄といわれた)の地頭となり、長井氏を称し、この地を統治した。以後広房の代までの約二百年の間、長井氏支配の拠点として、この米沢城に居館を構えたと伝えられている。南北朝時代の争乱期の天授6年(1380年)長井氏は伊達氏八代宗遠によって滅ぼされる。以後、伊達氏は領有の各地に居城を構え、戦略上転々と本拠を移した。
戦国期の永録年間(1558〜1570年)に、十五代晴宗が本格的に米沢城を築き、領国経営の拠点にしたと考えられる。戦国の雄、十七代独眼流政宗は、この米沢城で生まれたという。会津の芦名氏を破り戦国大名として大きく飛躍した政宗は、豊臣秀吉の命により天正19年(1591年)岩手沢城(後の岩出山城)に移封された。政宗移封後、米沢城は秀吉の将であった蒲生氏郷の持城となり、氏郷の家臣蒲生郷安が城主となった。郷安は近江国松ヶ崎の人なので、米沢城を松ヶ崎城といったとも伝えられている。
慶弔3年(1598年)秀吉は氏郷の嗣子秀行を宇都宮に移し、越後の上杉景勝を会津に移封した。秀吉は景勝に百二十万石を与え、奥羽鎮護の大任を課した。会津に入封し会津黒川(若松)城を居城とした景勝は、文武両道に秀でた第一の家臣直江兼継を領国経営の第二の要である米沢城の城主とした。天下分け目の関が原の戦い(慶長5年=1600年)で豊臣方に属したため、天下人徳川家康は、慶長6年(1601年)景勝を百二十万石から三十万石に減封し、会津黒川(若松)城を没収した。
景勝は家臣兼継の居城である米沢城に入り、松ヶ崎城を舞鶴城に改めたという。米沢に入部した景勝は、城郭の改修、水濠、土塁の築堤、掘立川の造築、城下の町割り、整備等、今日でいう都市計画事業に全力を尽すことになる。この大事業を推進することができたのは、景勝の名補佐役であった兼継の秀れた見識と手腕があったからであろう。慶長14年(1609年)景勝、兼継の城下町づくりは一応完了したといわれ、現在の市街地の礎となっている。
徳川幕府に対する配慮からか、米沢城には天守閣はなく、本丸の東北、西北の高台に御三階櫓二基を建てた。本丸は東西七十五間、南北六十間、東南隅には藩祖上杉謙信を祀る御堂を建て、米沢半の精神的支柱とした。本丸の周囲に堤を築きその外郭に濠を廻らし、堤の上に堀あるいは長屋を建て矢狭間を設けている。今日、本丸は上杉神社と松ヶ岬公園となっている。また、本丸を囲むように二の丸が配置され、二の丸にも濠を廻らしている。米沢に景勝が入部してから、明治2年(1869年)上杉氏十四代茂憲が版籍奉還するまでの268年間、米沢城は上杉氏の居城として、政治、経済の中心であった。

上杉謙信公
戦国末期、群雄割拠の中にあって「越後の虎」と怖れられた文武兼備の名将である。
大儒者 藤原惺窩は、戦国の世に学問を好んだ武将5人の筆頭に謙信の名をあげている。
謙信は享禄3年(1530)1月21日、越後の守護代長尾為景の次男(一説に三男)として越後春日山城に生まれた。幼名は虎千代。
元服して平三景虎と称した。7歳のとき春日山林泉寺に預けられ、名僧天室の教えを受ける。
謙信の生涯を貫く深い信仰心はこのとき培われたものであろう。
天文12年、14歳の影虎は兄晴景の命によって林泉寺を離れ越後平定に助力する。
晴景に代わって長男家を継ぎ春日山城主となったのは19歳の冬であった。以来戦いにあけくれる日々を送る。
攻めれば必ずこれに勝ったが、侵略のために兵を動かすことは絶えてなくすべてが義のための戦いであった。
戦国期最大の激戦と称される永禄4年(1561)の川中島合戦は、武田信玄との一騎打ちで広く知られるが、これら震源に侵略された信濃諸国を助けるための義戦であり謙信が戦術家としての天賦の才を遺憾なく発揮した一戦であった。
この年、関東官僚上杉憲政の養子に迎えられ、上杉政虎と改名して管領職を引継ぎ同年冬、将軍足利義輝の一字を賜って輝虎と改める。謙信と称するのは41歳の元亀元年からである。
謙信は毘沙門天を深く信仰し、軍旗に「毘」の一字を用いた。
出陣に際しては神仏の加護を願い天に代わって世の邪悪を払う「武締式」を執り行った。生涯女性を近づけなかったのも信仰上の信念によるものであろう。
謙信は詩歌・連歌の道にも堪能で、書は近衛流の名手と称された。天正5年、七尾城外で詠んだ「九月十三夜」はいまも人々に親しまれている。
天正6年(1578)3月9日、関東平定の出陣を前にして病で倒れ、同13日突然として逝った。享年49。
遺体は甲胄を着て甕に納められ、上杉家廟所の中央に眠る。

上杉鷹山公
上杉家十代。
窮乏の淵にあった米沢藩を、卓抜な発想と大胆な政策によって再建した江戸時代随一の名君として知られる。宝暦元年(1751)7月20日高鍋藩主秋月種美(三万石)の二男として誕生。幼名松三郎または直松。母は秋月藩黒田長貞の娘春姫。
春姫の母は上杉家五代上杉綱憲の娘である。宝暦10年、上杉家九代上杉重定の養子に迎えられ、明和3年治憲と改名。翌4年17歳で米沢十五万石の藩主となる。
幼少から折衷派の儒者細井平洲に師事し、実学一致の経世論を見につけた。藩主となるや大検令・産業開発・藩校興譲館の創立・政務の革新等を断行し、隠居後も政務に参与して再建に努めた。米沢織・米沢鯉・深山和紙など鷹山の興した産業は現在に伝承されている。天明5年(1785)養子治広に家督を譲って隠居し、鷹山と号した。民主政治の原点を示した「伝国の辞」は、このとき新藩主治広に与えたものである。文政5年(1822)3月12日没。春秋72。上杉家廟所に眠る。
追文
アメリカ合衆国第35代大統領J・F・ケネディが、日本人記者団の質問に「日本の政治家で最も尊敬しているのは上杉鷹山である」と答えたとは夙に有名である。
さらに最近では、わが国の行政革新の先駆者としての公の名は高まるばかりである。
わが郷土米沢が世界に誇る偉人をさらに永く、広く世人に知らしめるため、ここに「上杉鷹山公像」を建立したものである。


手水舎


この先が本殿

本殿前


神符殿

本殿

上杉神社御由緒

この奥は福徳稲荷神社

上杉神社 稽照殿

神符殿と本殿付近の様子

上杉神社北参道

堀には鯉が泳いでいます

堀の北側が伝国の森パーキング(無料)

この先まっすぐに行くとすぐに米沢中心市街に入ります

上杉神社から県道2号を南下、天元台、西吾妻スカイバレーへ向かいます。
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参考
天元台高原
白布温泉
白布温泉施設案内
西吾妻スカイバレー
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