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『アグネスからテレサの愛』

黄金華咲く


1931年、ダージリン行きの列車は
長い汽笛を鳴らした。
地上の全てのものを照らし付ける
白い太陽の眩しさにアグネスは目を細めた。
錆び付いた英國製の列車は重々しく
車輪を規則正しく響かせて、
次第に印度の乾いた大気の中を滑り始めた。
列車の屋根は時折、
枯れかかった潅木の枝を擦りながら、
徐々に快適なスピードになって行った。
「いよいよだ。始まるんだわ。」

アグネス・ゴンジャ・ボヤジュは1910年8月26日
オスマン帝国(マケドニア)に出生。
(この話は大半が創作です。真実かどうかはご推察願います。)

その街にとても信仰の篤い夫婦がいた。
「アグネス。アグネス。どこにいるの。」
するとアグネスの姉が、
「アグネスなら森よ。」
「また森なのかい。男の子じゃあるまいし。」
アグネスは森が大好きだった。
松や橡(くぬぎ)の繁る森には精霊がすんで居るのか、
静かな森の小道を歩いていると、心がいやされるのかも知れない。
「あ。赤いお花が咲いている。」
友達のルイが花摘みに夢中でも彼女は
「摘んだら可哀そうでしょ。」
森には色々、知らない鳥も棲んでるわ。
何か知らない話を聞かせてくれるの。
「それで、どんなお話だったの。」
「何か知らない話だったわ。」
「はーはっはっはっ。」
「何よ、お兄ちゃんじゃないの。」
「森の中の王女様。」
「何で有ろう。」
「お家ではお母様がご心配されております。」
「ご苦労じゃ。」
「はっはっはっは。」
「夕ご飯ね帰りましょう。」

「アグネス。」
「アグネス。」
明け方の未だ暗い空。
白い三日月が輝いていた。「アグネス。」
自分の名を呼んでいる。
「全てを捨て、最も貧しい人々の力に成るべし。」
突然、アグネスの脳細胞の奥から、厳かな声が聞こえて来た。
1946年、当時彼女は印度カルカッタの聖マリア学院で
教鞭を取って居た。
それは突然の事で有った。過労と印度の暑さからか、
列車の心地良い振動に寝入ってしまった。
「あ、貴方様のお名は…」
「全てを捨て、最も貧しい人々の力に成るべし。」
列車は心地良い振動で走った。
どうやらその言葉が彼女の生涯を決定付けた様だ。
地上の全てのものを照らし付ける白い太陽の眩しさに
アグネスは目を細めた。
錆び付いた英國製の列車は重々しく車輪を規則正しく響かせて、
次第に印度の乾いた大気の中を滑り始めた。
列車の屋根は時折、枯れかかった潅木の枝を擦りながら、
徐々に快適なスピードになって行った。
「いよいよだ。始まるんだわ。」


1931年とはどんな時代か簡略にご紹介いたします。
1876年インド国内では、
525万人が餓死するインド大飢饉が有り
印度そのものもイギリス領で有った。
東インド会社の経営により長い間印度に限らず
アジアアフリカは、
植民地の苦役を逃れる術は無かった。
1928年ごろには「塩の行進」当等で有名な
ガンジー氏、ネール氏の民族運動が盛んな時代で、
アグネス(後のマザー・テレサの活躍される時代は
今も変わらぬ印度の社会底辺の貧しさは特別のもので
あったらしい。)

「18の頃かしら、私は故郷、懐かしのスコピエを出たのよ。」 
若いシスターと井戸端で語らうマザー。
「そう、ロレト修道女会が有るでしょう。そしてカルカッタ。」
「マザー。」
「マザーのお母様は、悲しまれませんでしたか。」
「そりゃね。とっても愛して下さった。」
「…。」
「皆、主の。天の父の思し召しよ。」
と微笑むのだった。

テレサは1944年、カルカッタの聖マリア学院で校長職について居た。
富裕な家庭の子女を教育されて居たが、
常に印度最下層の人々に心が離れる事が無かった。
その頃だった。
「全てを捨て、最も貧しい人々の力に成るべし。」
やがて彼女は、その啓示のままに行動するので有った。

あるとき、ひとりの紳士が私たちの家に来て、八人の子どもを持つヒンズー教徒の家族がいて、何日も食べていませんから、なんとかしてくださいといいました。
そこで私はいくらかの米をその家族に持っていきました。
その子供たちの目からひどく飢えているのがわかりました。
ところが、母親は私の手から米を受けとると、半分に分けて出て行きました。
彼女が戻ったとき、私は、「どこへ行ったの、何をしてきたの?」と尋ねました。
すると彼女はなにげなくこう答えました。
「あの人たちも飢えているのです。」
彼女は隣の家族が、同じく飢えているのを知っていたのです。        (「生命あるすべてのものに」マザー・テレサ)
希望溢れる21世紀の日本では孤独死が絶えないとか。豊かさとはなんだろう。

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