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希望の実現!

この章は子供の教育に半生をかけた、教育者鎌稲蔵氏の現場を通して歩まれた貴重な体験エッセー集でございます。ご本人のご許可を受けて此処に謹掲させて戴きました。普段の教育のご参考になれば幸いです。尚技術的なミスで誤字等がございましたらご容赦ください。

黄金華咲く

  

朝の五分を生かそう!!

内閣改造が新年に持越されるのではないかと取りざたされていだが、急拠という感じの平成二年十二月二十九日に決まり、中に紅一点四十八歳最年少の美人大臣が誕生した。国務大臣、科学技術庁長官の山東昭子である。タレント、赤銅鈴之助・クイズの女王等で有名である。彼女は、実は、私の教え子である。大臣といえぱ普通年齢的にも六十歳以上の超ベテランというのに私が現職で、教え子が大臣、こんな果報者はまたとない。私が大学を出たての新卒での教え子である。

三年前に世田谷区立深沢中学校の、彼女と同学年の同窓会が開かれたが、彼女は参議院議員としての活躍のあい間を縫って、同窓会に出席した。昔さながらの話の仲間に入り、写真も撮り、名刺も配り、知に優る彼女の情緒豊かな面が浮き彫りされた。その話の中で、他の元生徒から、「先生は山東さんぱかり指名していた」と、昔の生徒に還った発言があったが、確かにその通りだっだ。彼女は、もともと頭脳明晰であり、全てに長じていたが、私が音楽教師で、音楽の時間にも歌がズバ抜けてうまかった。そこで、「生命の教育」で長所を伸ぱす。また、うまい歌を他の生徒に聞かせる。ということで、できる限り彼女に指名し、私の伴奏で歌ってもらうという心がけであったことを回想する。国語の八丸先生も、「彼女の朗読は僕よりうまい」と、舌を巻く程であった。当時、既に私は通勤の途上、地下鉄の末広町から渋谷までの往復を、生命の實相」を読むことにしていた。第二十五巻のTはしがきUの冒頭に、著者の谷ロ雅春先生が『教育の根本は児童(生徒)にやどる無限の可能性を信じ、発見し、それを賞揚し、激励し、自信を高め、勉学に興味をもたしめることにあるのである』と記していることの実践に取りかかっていた。その一環として、私が生徒にすすめたことの中に『生命の實相』頭注版の第七巻四頁の「朝の時間を生かせ」があった。その内容をあげると、『この時間はわれわれが眠りより意識の世界に誕生した時の最初の産ぷ声をあげる時なのである。われわれは無意識の世界−−いっそう大きな啓示の大本源の世界−−からじょじょに意識の世界へと移動しはじめるのである。まだ無意識の世界から意識の世界への架け橋は落ちていない−−この時間は特に印象深く、いっそう大きな啓示の世界から豊かな啓示が流れ込んで来るのである』『「今」の時間は利用しなければすみやかにすぎ去る。しかしこれを生かして利用するとき無限の価値を生み出すのである。

夢の実現!!

前月号のT朝の五分を生かそうUで、教え子が希望を成就しだ話を載せだが、今回は、その元になった私の体験を披露したいと思う。私が音楽学校へ行きたいという、それはとても希望などと言えるものではなく、全くの夢に過ぎない程度のことであった。私の音楽の素養と言えぱ、母の口ずさんでいた「桜井の別れ」という歌とポータブル蓄音機で聞いた音楽位であった。東京から疎開して来たピアノの先生の塾に通い始めたのは、旧制中学二年で終戦を迎え、飢えをしのぐ最中であつたピアノの先生は、一曲ごとに、次は数段上の曲を指定されるので、私はいつも譜読みに追われている状態であった。そんな或る時、学校の音楽の先生から、「東京に日本一の音楽学校がある」と聞いた。この具体的な目標がストーンと心の奥に入り込んだ。この時から、『生命の實相』第七巻の「生長の家」の生き方の実践を始めた。具体的には@朝五時より七時までピアノの練習をする。A授業を受ける時間内が勝負であるとし、真剣に授業を受ける。B今日一日学習することができたことへの感謝と自分の心を磨く観点から帰りの掃除に汗を流す。の三点だった。このことが『生命の實相』二十五巻の序文にある「自己を深く掘り下げること」になった。高校に入って音楽の先生から豊富な写真入りの厚い西洋音楽史を貸して戴き、音楽の世界の広さと魅力を感じた。まだ音楽室で音楽経験豊富なその先生と音楽の話をすることに幸せを感じた。しかし、幸せを感じる音楽は趣味としては許されるが、学問や将来の職業として考えることはできなかった。また、ピアノ教則本の進度が進む程に、うまく弾けず、練習を何十回何百回積み重ねても気に入ったように弾けないために、音楽の才能がないのではないかと思い込んでいた。そこで高校卒業の時には、就職試験を受けたが駄目であった。そこで大学共通テストを受けておいたのが生きることになった。その共通テストの受験票には「東京芸術大学音楽学部」と書いていたのである。『甘露の法雨』の神の項に「心動き出でてコトバとなれば一切の現象展開して万物成る」とあるが、希望をはっきりと書いて表明したことが、希望実現への流れをつくって来た。私の考えでは、大学を二年出れば高校教員の仮免許状を手にすることができる。そこで東京に出て高校の夜間の先生をしながら昼間の音楽学校に通うという道筋であった。大学というのは、私にとっては身近で国立の信州大学であった。受験に際し、私の手違いから、自

映画「野麦峠」の渦中に生きた父

私の父は、学校の先生を尊敬していた。
子供が男子五人女子一人いて女子は一番下であった。子供が「学校の先生がこうしなさいと言われた。」
というと、他のことは全て後まわしにして、そのことを第一にするというのが、私の家では通っていた。
従って、子供の私達は、先生の話しを一言も聞きもらさないようにと心がけ、父と同じく先生を尊敬していた。
私達の担任の先生もまた立派な先生ばかりで、特に小学校はみな同じであったから今も記憶に残っている。私の小学校一・二・四年は富士松先生で、絵が大変上手で、クラスの子を交代で先生の家に呼び、一人ずつ全員に似顔絵を描いて下さった。
私は家に持ち帰り親兄弟に「似ている、そっくりだ」と言われ、私がほめられたような嬉しい感じが、今もほうふつとよみがえる。
先生を尊敬し、親しむ中で自ら学ぶ意欲が湧いてくる。
中学校では現在、東大の金井名誉教授のお父さんが、もともと英語の先生で、道徳の先生も兼ていて、その道徳の時間のことである。その時間は丁度期末試験の前時で、先生は授業の中で、試験に出る問題を、いつもより少し早めではあったが、四問出題の四問とも全て教えてくれたのである。私はその四問とも真剣に考えて答えを用意しておいた。
私は先生に最高得点をもらった。
このようなことは、先生がふだんの熱心な真面目さで、このような問題が道徳として特に大切だと言われる。そのことを真正面から受けていて、ああ、これは試験に出す程大切なことなのだと、以心伝心でさとったのである。
さて、父の話しをすすめたいと思う。
私の父は、長野県栖川村奈良井に八人兄妹の次男として生まれた。
当時から漆器やお六櫛(つげの櫛)などが村の生産物であった。
そのお六櫛は、浅草の小島町に中継店を置いて、小伝馬町の問屋街に納めていた。この浅草小島町の中継店に、父は十四で丁稚に出された。
大八車にお六櫛を積んで卸問屋に運ぶ。
個人の注文には夜半に配達することもあった。
丁稚の仕事は辛くて、夜は涙で枕がぐしょぐしょに濡れる程であった。その辛い生活の中で、父は考えた。一生このような生活で終わっては自分が生かされない。
自分はもっと別な、自分を生かす道があるのではないか。
そのためには学問だ。
学問をして自分を磨けばもっと別な、自分の納得の行く道が開け、自分の生活ができるのではないか。と。学問をするのだ。
この父の心境は、新教育課程での改善のねらいの二番目に当たる。
「自ら学ぶ意欲と社会の変化に主体的に対応できる能力の育成」を重視するというねらいにぴったりと当てはまるのである。
父は、学問をするためには、丁稚では四六時中が仕事で、その時間を見つけることができない。
せめて、きまった仕事で、その仕事の流れが計画的に進んで、一定時間には終るという仕事につけないものかと、親や知人に相談した。その折りしも、生糸の売れ行きが良かったのか、あるいは丁稚と変わらず辛い仕事だったためか、映画「野麦峠」に出てくる製糸工場での募集があり、住込みで勤めることになった。
さあ、いよいよ学問だ。
何の学問をしようか。
と考えるとき、世界地図での日本の国の狭いこと、資源の乏しいことから、外国との貿易や付き合いが大切だろうと思った。
そのために外国語を、外国語と言えば最も多く使われている英語を身につけようと考えた。
学問をするための英語の本は高かった。なけなしの財布の底をはたいて買ってきた。ところが「野麦峠」に出て来る製糸工場である。仕事はきまっていると言っても、丁稚奉公より楽だとは決して言えない。
ただ一日の流れの予測がつくということが良かった。しかし、その予測の中で、やはり学問の時間は容易に見つけ出せなかった。
「生命の實相」第七巻十五ページに「諸君よ、自己の朝の頭脳の明快な時間を生かすと捨てるとで、諸君自身の偉大と矮小と、成功と失敗と、博識と無学とが分かれることを知れ。世の中に自分は勉強する時間がなかったから成功の道がないとつぶやくほど愚かしきことはないであろう。朝の時間をたくみに生かしさえすれば、学校で習うくらいのことは、どこかで雇われながら仕事の片手間で独学できるのである」と、ある。父は、この朝の時間を生かすということを考えた。
それも、ふつうの朝の時間ではなく、私が朝五時からピアノ練習したのに比し、さらに二時間早く、早朝三時に起きて勉強するというのである。
菜種油を入れた「あんどん」を灯して、時には睡魔におそわれたりもしたが、何とか順調に進むかと思われたのだった。
父はこの頃三時起きが身についていて、晩年には「甘露の法雨」の写経をしていたがその写経も、時には「實相」の二字を白抜きにして掛け軸も書いて、私達が起きる頃にはできあがっていたりした。
話は戻るが、父の勉強の最中に、経営者のおばあさんがトイレに起き出してきて、通りがかりに「あんどん」の明かりを見つけ、「菜種油がもったいない」と言って、父を叱った。
それでも、父は初心一徹で、今度は見つからないようにと、「あんどん」に唐草模様の風呂敷を幾重にもまわし、廊下に明かりが洩れないょうにして英語の勉強を続けた。昼間は菜種油の代金以上に余計に働くように心がけた。
この英語の勉強をしたことにより、この英語による直接の喜びを見いだしただけではなく「生長の家の生活」とも合致するのであるが、ものごとの考え方、生き方が進歩的で常に前向きに、視野も広く、新しい時代に先がけて進む方向に助長されたのである。
父の子、孫、ひ孫を合わせると三十七人になる。
昭和五十八年十月四日に九十二歳でこの世を去ったが子、孫、ひ孫に囲まれ、大往生であった。

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