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イマージュツアー21

グレートリバー物語り31

黄金華咲く

 グレートリバー、それは偉大なる大河。人間は三千年の歴史の中で、釈迦、耶蘇、マホメッドと、その他多くの霊的指導者、聖人を排出して来ました。その起源は一つの見えざる大いなる源泉で有る事は、疑い様の無いものであります。多くの支流、本流を伝えて、軈ては大河は、大海原に一つに注がれるものであります。生長の家は、開祖の谷口雅春尊師の、求道の末の「今起て!」の霊的な言葉に始りました。いま人類は多難な時代を目前にしています。世界的な経済難、災害、疫病、紛争。国際的救済機関が幾つ出来ても、人々の心が変らなければ、この難局は越えられないと云うもの。今こそ、あらゆる人々が万教帰一の元に人間愛で、救うべき大河となって、進もうではありませんか。

《存在証明》

某掲示板「神とは」の中でスレッド主の方のコメントがあり、

稚拙ながらお答えさせて頂きました内容が面白かったので、ご紹介いたしましす。

Q: 哲学者デカルト(1596〜1650)は、「神の存在証明」を行った。
人間は有限な存在でありながらも、無限という観念を生まれながらにして持っている。
生来備わっているものは、人間以外の誰かによって授けられたものに違いない。
その「授けた主」こそが神である。
・・・
デカルトは、「神」「精神」「物質」を実体と呼び、この世界の三大構成要素とした。
しかし、実体を3つも考えてしまったことは、後に大問題となっていく。

A: 哲学を専門に修得した経験が有りませんので、デカルトも余り深くは存じません。
神の存在証明を行った事は素晴らしいですが「神・精神・物質」三大構成要素とした。とあり、三つも考えた事が問題の契機に成ったと有ります。
デカルトにとって、この視覚せる世界を構成するモノには形有るものが不可欠と見えたのでしょう。
「神・精神・物質」特に物質を並べたと云う事は、デカルトは神が絶対なモノでは無く物質(仮に石ころ)も神と同レベルに必要構成要素に思えたのでしょう。
キリスト教の聖書には、「神光りあれ、と云い給い(言葉)けるに、光り有りき、言葉は神と共に有り、言葉は神なりき。全ての物これによりて成り、」と有ります。
釈迦の「無明縁起説」では、無明が事物発生の根元であり、すべての被造物がことごとく無明によって支配されていることから、悲観的消極的な暗黒思想に陥ることになる。
谷口雅春先生ご自身も現象界の悲惨極まる光景をご覧になって、そのような現象を創造されたのが神ならば、そんな神を認めない・・として一度は完全な無神論になられたことがある。
言わばデカルトが「神・精神・物質」が此の世の三大構成要素であると云ったとすれば、全く仏教の「無明縁起説」と同じではありませんか。
造物主の他に物質が存在したと云う事はその物質はどうして生まれたか。神が関知しないとすれば、神以外の造物主を認めざる負えないと云う矛盾も出て来ますね。

Q: 哲学者カント(1724〜1804)は、人間は生まれつき備わった空間や時間という枠組みを持っていると考えた。
そして、その時空の枠組みで対象物を理解することを「構成」と呼び、私たちは、「構成」することでしか世界を認識できないと説いた。
「神は存在するかどうか」「霊魂は不死であるかどうか」「世界に果てはあるのかないのか」などは、理論的に理性の力で考えても解決できることではないと説いた。
理性は「コップ」という概念は把握できても、「コップそのもの」という物自体は把握できないからである。
神の存在や霊魂の不死は物自体にあたるため、理性の範囲を超えていると説いた。
・・・
そうか!なるほど!

A: 神を既存の哲学や、論理で理解する事は困難です。哲学、論理で開明できるほど単純な存在ではないと思う。世界のトップクラスの思想家でも、宗教家でも、神の本質に関しては何処迄も不可思議な存在。
お釈迦様は「山川草木国土悉皆成仏」全ての物の命は仏の現れである。キリスト教でも「初めに言葉有り、言葉は神なりき」言葉とは何を指すのか。谷口雅春尊師は、言葉とは理念である。と申されました。後は、各自ジッと心の目を自分の内成る世界へ振り向け瞑想なり、祈りなりで、内観する事。目に見えないものは目を閉じると見えて来ます。

A: 訓古的に仏教経典を研究する学者は、著作の年代とか、本当の著者の名前とかを問題にし、従って肝腎の問題であるべきその書に、本当に「久遠を流るるいのち」が生きているかどうかを忘れてしまう傾向があるのは遺憾である。「仏典を論ずる」ためには、サンスクリット語や、パーリー語やー西域地方の古代の方言やチベット語などさえも必要であろう。略…しかしそれはいつまでも語学の世界と考証の世界に堂々廻りしていて、その教えの堂奥に飛び込むことはできないのである。本当の「さとり」の世界へ飛び込もうと思うものは、語学や考証の世界を一躍して「久遠を流るる命としての釈迦」そのもののうちに飛び込まなければならないのである。(生命の實相第二十七巻く)
日常生活の中で人と語る、又はウエブにて、信仰問題を論じる事が有ります。
そんな時に頼れるものの一つに、拙い宗教的知識や人生体験が有るが、そんなものではとても越え難い大問題も人生には待ち伏せて居るもので有ります。
真に難局を越え得るのは姑息な智識の断片では無く。如何に日常の信仰生活での切磋琢磨の賜物が無ければ用に堪えないものかも知れません。
「久遠を流るる命としての釈迦」とは「久遠を流るる命としての自分自身」を見つめる確かな目(心の目でしょうか)なのでしょうか。
http://www33.tok2.com/home/kankyou/great.8.html


A: 難しい宗教論は兎も角、神に仕え、常に国民(くにたみ)を念い、病にも伏すさず、只管震災後の式典に臨もうと為さる「おおみこころ」に神祭るみ心の大いさを学ばされます。


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○世界平和の祈り

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板橋相愛会謹製

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