《黄金華咲く》

―大日本史現代読み―
(なにしろ門外漢の手によるもの故、何かと不備では有りますが、
現代の歴史の渾沌とした時代に、より多くの若者に、歴史単語の[大日本史]では無く、
心の通った[大日本史]をお伝え致したく存じ上げるしだいです。
旧漢字で、ソフトに無い文字は新漢字もしくは、ひらがなとさせていただきました。)


神武天皇につきまして 其の一

生前は、
彦火火出見(ひこほほでみ)
と申されました。

ご幼名を狭野(さぬ)と申された。
天祖大日霊尊
(あまつみおや おおひるめのみこと)
と云われる神が、

高天原(たかまがはら)
を治められました。

この神様を、
天照大神(あまてらすおおみかみ)
と仰いました。

天照大神のみ子である、
正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊が、
(まさか あかつ かつはやび -
 あめの おしほ みみの みこと)

高皇産靈尊(たかみ むすびの みこと)
と云う神の娘である、
栲幡千千姫(たくはた ちぢひめ)
を娶りて(お嫁さんにして)、

天津彦彦火瓊瓊杵尊
(あまつひこ ひこほの ににぎの みこと)
を出産なさいました。

天照大神(あまてらすおおみかみ)は、
神々に、地上を平和に治める事を
命じられました。

天照大神(あまてらすおおみかみ)は
ご子孫を地上世界に、
お送りになり、
地上世界を治めさせました。

そして、
天津彦彦火瓊瓊杵尊
(あまつひこ ひこほの ににぎの みこと)に
天子としての み印しとして、

八坂瓊曲玉(やさかにの まがたま)
八咫鏡(やたの かがみ)
草薙劒(くさなぎの つるぎ)
の三種の宝物を、
お渡しになりました。

豊葦原瑞穂國
(とよあしはらの みずほのくに)は
天照大神(あまてらすおおみかみ)の
子孫が代々治めるのである。
と宣べられた。

立派に世を治めるよう。
ご治世の盛んなること
天地と共に尽きること無く
永遠であることでしょう。
この時、
瓊瓊杵尊、(ににぎのみこと)
天磐座(あめのいわくら)を離れ、
日向(ひむか)の
高千穂峯(たかちほのみね)に下り、
とうとう吾田(あた)に行かれた。
大山祗(おおやまつみ)の娘、
木華開耶姫(こおはなの さくやひめ)
を娶りて(お嫁さんにして)、
彦火火出見尊(ひこほほでみの みこと)を
お生みなされた。

(原文)
神武天皇、
諱は彦火火出見。
小名は狭野。
天祖大日霊尊、
高天原を治めき。
是を天照大神となす。
天照大神の子
正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊、
高皇産靈尊の女
栲幡千千姫を娶りて、
天津彦彦火瓊瓊杵尊を生む。
天祖、既に群神に命じ、
下土を平定せしむ。
迺ち天孫をして、
降りて葦原中國に
居らしめて
之が主となし、
賜ふに八坂瓊曲玉
及び八咫鏡。
草薙劒の三種の寳物を以てし、
因て之に謂て曰く、
豊葦原瑞穂國は、
是吾が子孫の王たるべき地なり。
爾宜しく就きて治むべし
寳祚の隆なること
天壤とともに
窮りなかるべし。
是に於いて、
瓊天磐座を離れ、
日向の高千穂峯
遂に吾田に到
大山祗の女
木華開耶
姫を娶りて
彦火火出見尊を生む
999999999999999999999999999999999999


神武天皇につきまして 其の二

彦火火出見尊(ひこほほでみの みこと)は、
海神豊玉彦(わたつみのかみ とよたまひこ)の娘の
豊玉姫(とよたまひめ)を娶りて(お嫁さんにして)、
彦波瀲武うがや茸不合尊
(ひこなぎさ たけうがや ふきあえず)を生む。
瓊瓊杵尊(ににぎの みこと)より下、
茸不合尊(ふきあえずの みこと)に至るまでは、
代々お継(つ)ぎになり、
天津日高(あまつひだか)とお呼びしました。
その後の時代これを尊んで、
皆様を天祖(あまつみおや)とお呼びしました。
天祖(あまつみおや)のご子孫は、
永遠(えいえん)に続くことでしょう。
それで御即位(ごそくい)の事を、
日嗣(ひつぎ)と申します。
大昔の事は、年代が永遠(えいえん)で、 
人間業(にんげんわざ)でない、
不思議なことで測り知る事が難しい、
以上の事を神代(かみよ)と申します。
天皇は、 
茸不合尊(ふきあえずの みこと)の
四番目の御子でいらっしゃいました。
母を玉依姫(たまより ひめ)と云い、
庚午(かのえうま)にお生まれに成りました。
ご性格は聡明で道理をわきまえ、
ご意志の強いお方でした。
十五歳にして皇太子に成られ、
御成長するに従って、
吾平津姫(あひらつ ひめ)をお妃として
お迎えに成られました。
甲寅(きのえとら)の年、
天皇、御年四十五歳になられ、
高千穂宮(たかちほのみや)に
お住まいに成られました。
この頃、
西日本では長らく朝廷(ちょうてい)の
政事(まつりごと)に従(したが)いました。
しかし東日本では今だ服従しませんでした。

彦火火出見尊は、海神豊玉彦の女豊玉姫
を娶りて、彦波瀲武うがや茸不合尊を生む。
瓊瓊杵尊より下、
茸不合尊に至るまでは、
世世相襲ぎ、天津日高の號あり、
後世之を尊びて、亦皆天祖と稱す。
天祖の胤、無窮に傳る。
故に騰極は、之を日嗣と謂ふ。
上世の事は、年代悠遠、 
神異にして測られざれば、
總て之を稱して神代と曰ふと云ふ。
天皇は、 
茸不合尊の第四子なり。
母を玉依姫と曰ひ、庚午の歳を以て生る。
生れて明達、意確如たり。
年十五にして立ちて太子となり、
長ずるに及び、
吾平津姫を納れて妃となす。
甲寅の歳、
天皇、年四十五歳、
高千穂宮に在す。
是の時に當り、
西州久しく王化を被りかしども、
東國未だ服従せず。

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神武天皇につきまして 其の三

長髓彦(ながすねひこ)は、
饒速日命(にぎはやび のみこと)を
ご主人としつかえ、
兄猾(えうかし)・弟猾(おおとうかし)・
八十梟師(やそたける)・
兄磯城(えしき)・弟磯城(おとしき)ら、
それぞれの長(おさ)となり、従いません。
天皇、
ご一族および皇子に仰(おっしゃい)いました。
皇室の先人が國(くに)を治(おさ)める為、
多く歳月(さいげつ)が経ちました。
ところが、時の運が至らず、
この西の国々を治めようとする時、
遠く辺ぴ(へんぴ)な為、
中々朝廷(ちょうてい)の治世(ちせい)の
恵みが行き届かない、
或(ある)地方に一族が居た。
村に長(おさ)が居て、気侭(きまま)に、
朝廷を侮り(あなどり)踏み(ふみ)にじりました。

天皇はこれを鹽土の老翁
(しおつちのおじ)に
お聞きに成られました。
東に理想郷(りそうきょう)があります、
青い山並(やまなみ)に囲まれた、
また天磐船(あめのいわふね/不可思議な乗り物)に乗って
舞い下った方もお出でです。
思いますに、
そのお方は饒速日(にぎはやび)様ではありませんか。
あの土地は、
正しく天下の中心なので、
そうして天下お治め致しましたら、
天下がお栄え致す事でしょう。
程よくご即位なされ、
都をお開きに成られると宜しいでしょう。
皇子の皆様、
このご意見に賛成なさいました。

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長髓彦、
饒速日命を奉じて主となし、
兄猾・弟猾・八十梟師・兄磯城・
弟磯城等、各君長となり、
相統一せず。
天皇、
諸皇兄及び皇子に謂て曰く。
天 降迹以来、
多く年所を歴たり。
れども、時運草昧にして、
此の西邊に治し、
  の地、
猶未だ王澤に霑はず、
遂に邑に君あり、
に長あり、
各自ら彊を分ちて、
て相陵轢せり。

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諸を鹽土の老翁に聞く、
東に美地あり、
青山四周し、
又天磐船に乗りて
降れるものありと。
意ふに、
其饒速日ならんか。
彼の土は、
蓋し六合の中なれば、
以て大業を恢弘し、
天下に光宅するに足らん。
宜しく就きて
之に都すべしと。
諸皇子、
皆之を賛成す。*************************************************

神武天皇につきまして 其の四

十月五日、
天皇、
ご自身 ご兄弟の五瀬命・稲飯命
(いつせのみこと・
いないひのみこと)
・三毛入野命(みけいりぬの みこと)、
そして皇子の手研耳命
(たぎしみみの みこと)たちを
おつれになり、
船に乗られて東国を治めになり、
速吸(はやすい)の港に行かれた。
漁師の珍彦(うつひこ)と云う男がいた。
天皇を迎えた。
この者に案内を求めた。
椎根津彦
(しいね つひこ)と云う名を与えた。
筑紫國莵猝(つくしのくに うさ)
に着いた。
莵猝津彦(うさつひこ)・
莵猝津姫(うさつひめ)、
休息所を用意し、お持て成した。
莵猝津姫(うさつひめ)は、
ご家来の天種子命(あまのたねこ のみこと)
妻と成った。
十一月九日、
崗(おか)の港にお着きの成られた。

(原文)

十月五日辛酉、
天皇、
親ら皇兄五瀬命・稲飯命
・三毛入野命、
及び皇子手研耳命等を帥ゐて、
船帥東征し、速吸門に抵る。
漁人珍彦といふものあり、
来り迎う。
之に郷導を命じ、
名を椎根津彦と賜ひ、
進みて筑紫國莵猝に至る。
莵猝津彦・莵猝津姫、
宮を造り饗を奉る。
莵猝津姫を以て侍臣
天種子命に賜ひ
妻となさしむ。
十一月九日甲午、
崗水門に至る。

《黄金花咲く》
神武天皇につきまして 其の五

十二月二十七日、
天皇は安藝(あき)にお着きに成られた、
埃宮(えのみや)にお出ででした。
乙卯の年、
三月六日、
吉備國(岡山県辺り)にお出でになり、
行宮(あんぐう/天皇の旅先の仮のお住まい)を造り、
高島の宮と云いました。
此処に三年程いらっしゃいました。
沢山の船をご用意して、
兵士と食料をご用意なされ、
一度に
天下を治めようとなさいました。
戊午の年、
二月十一日、
船団は東に向かわれ、
船団は一体となって、
浪速國(なみはやのくに/大坂辺り)
に至りました。

(原文)
十二月二十七日壬午、
安藝に至りて、
埃宮に居る。
乙卯の歳、
三月六日己未、
吉備國に入りて、
行宮を造り、
高島の宮と曰ふ。
之に居ること三年、
舟しふを備へ、
兵食を蓄へ、
将に一擧して
天下を平げんとす。
戊午の歳、
二月十一日丁未、
舟師遂に東し、
舳艫相接して浪速國に抵る。

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神武天皇につきまして 其の六

三月十日、
流を遡(さかのぼる)ると河内(かわち)の
草香邑(くさかのむら)
青雲白肩津(あおくもの しろかたのつ)に至る。
四月九日甲辰、
兵を整えて龍田(たつた)に向かわれました。
道は狭く厳しかったので
兵を並べて行くことが出来なかった。
それで一旦戻り、
東側から、
膽駒山(いこまやま)を 
通り中州(なかつくに)行こうとされた。
長髓彦(ながすねひこ)、
大兵で孔舎衛坂(くさいのさか)で迎え撃った。
懸命(けんめい)に戰っても勝てなかった。
五瀬命(いつせの みことは)、
流矢に当って、
軍は進むことが出来なかった。
天皇、これを憂えた

(原文)

三月十日丙子、
流を遡りて河内の草香邑 
雲白肩津に至る。
四月九日甲辰、
兵を勒して龍田に赴く。
路嶮隘にして並び行くことを得ず。
及ち還りて、
東のかた、
膽駒山を 
歴て中州に入らんと欲す。
長髓彦、
衆を悉して之を孔舎衛坂に徼ふ。
與に戰ひて利あらず。
五瀬命、
流矢に中りて、
師進むこと能わず。
天皇、之を憂ふ。

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神武天皇につきまして 其の七

それで、一同 語り合い帝(みかど)は、
私は陽の神の子孫(しそん)であるが。
それなのに太陽に向かって
敵(てき)を攻(せ)めるのは、
全く天に逆(さか)らう事である。
かなう訳が無い。
一旦退却(たいきゃく)して
侮(あなど)られても、
祭るべき神をお祭りし、
背後に太陽の神の威厳(いげん)を持ち、
影の方向に攻め寄せれば。
刃で人を傷つける事無く
敵は敗退(はいたい)するであろう。
ここで、
軍を引きあげられた。
敵は攻め寄せて来ず。
退さがって草香津(くさかのつ)まで退却した。
盾(たて)を立てゝ雄誥(おたけび)あげた。

(原文)

乃ち謀りて曰く、
我は是日神の子孫なり。
而るに日に向ひて虜を征す、
是天に逆ふなり。若かず、
退き還りて弱きを示し、
祗を禮祭し、
背に日の威を負ひ、
影に随ひて厭躡せんには。
則ち刃に血ぬらずして
虜必ず自ら敗れんと。
是に於いて、
軍を引きて還る。
虜亦敢えて逼らず。
退きて草香津に至り、
盾を植てゝ雄誥をなす。

神武天皇につきまして 其の八

よって更にその港を
名付けて 盾津(たてつ)と言いました。
五月八日
茅渟山城水門(ちぬの やまきの みなと)
に着いた。
五瀬命(いつせのみこと)、
創(きず)で病んでいました。
剣を抱きながら憂い(うれい)
嘆いた(なげいた)
男子たる者、無駄に敵の刃に傷ついた。
借りを返さず
命を落とすのかと。
紀伊(きい)の竈山(かまやま)まで
戦いぬき亡くなられた。
六月二十三日、
名草邑(なくうさのむら)に着き、
名草戸畔(なくさ とべ)を成敗し、
遂(つい)に狹野(さぬ)を経(へ)て、
熊野(くまの)の神邑(かみむら)に至り
海を絶(わた)りて進み、
暴風に遇(あ)ってさすらった。

(原文)

因て更に其の津を
名けて 盾津と曰へり。
五月八日癸酉
茅渟山城水門に至る。
五瀬命、
創を病むこと甚し
慨然として劒を撫して曰
大丈夫、虜に傷けらる
報いずして
死なんやと。
進みて紀伊の竈山に
至りて薨ず。
六月二十三日丁巳、
名草邑に入り、
名草戸畔を誅し、
遂に狹野を歴て、
熊野の神邑に抵り、
海を絶りて進み、
風に遇ひて漂蕩す。

******************************************

神武天皇につきまして 其の九

稻飯命(いないの みこと)・
三毛入野命(みけいりぬの みこと)、
大変に恨(うら)んで
海に入る。
天皇、
独り皇子手研耳(たぎしみみの みこと)
とともに、
進んで荒坂(あらさか)の港まで行き、
丹敷戸畔(にしき とべ)を成敗した。
その時に神が現れ、
(その地方の悪意を持った悪霊であろうか)
毒気を吐き人を害し、
軍衆(ぐんしゅう)は皆病んだ、
軍の士気が落ちた。
天皇も寝込んでしまわれた。
熊野(くまの)の人、高倉下(たかくらじ)、
布都御魂劒(ふつの みたまの剣)を献じられたら、
(日本神話で、
神武天皇が国土平定の戦をしているとき、
天照大神が与えたという霊剣。
奈良県天理市の石上(いそのかみ)神宮に
祭られる。ふつのみたまのつるぎ。)
突然に意識を戻されて仰るには、
私は何故、長く眠って居たのだろう。
兵士達も続いて意識を戻した。

(原文)

稻飯命・三毛入野命、
憤怨して海に入る。
獨り皇子手研耳とともに、
進みて荒坂津に至り、
丹敷戸畔を誅す。
時に神あり、
氣を吐きて人を毒し、
軍衆皆病み、
復振つこと能わず。
天皇も亦寐ぬ。
熊野の人高倉下、
布都御魂靈劒を献ずるに及び、
忽然として寤めて曰く、
予何ぞ長く眠れること
此の若きと。
士卒尋で起きぬ。

******************************************
神武天皇につきまして 其の十

最早(もはや)、帝の軍勢(ぐんぜい)は進み、
中州(なかつくに/当時の国土の中程)
に入ろうとなされた。
山路は険しくて
戸惑ってしまわれた。
天皇様は夢をご覧に成られた、
夢枕に天照大神(あまてらす おおかみ)が現れて
帝に教えられた、
今、頭八咫烏(やたがらす)を
使いに向かわせた、
宜しく道案内とせよ。
たまたま頭八咫烏がやって来た。
天皇、大に喜び、
道臣命(みちの おおいの みこと)を
大來目(久米直(くめのあたい)の祖である、
大久米命(おおくめのみこと))を帥ゐて(ひきい)、
頭八咫烏(やたがらす)に従って啓行(ひきつれ)られて、
遂(つい)に菟田(うた)の下縣(しもつ あがた)
に達することを得たり。
[八咫烏(やたがらす、やたのからす)は、日本神話で、神武東征の際に、タカミムスビによって神武天皇の元に遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされる三本足の烏である。しかし、三本足と明記はされていない。ご存知サッカーJリーグシンボルマークは、日本神話に出てくる三本足のカラスである八咫烏を元にしたものである。太陽を表す「黄の地に橙の帯」の上に、翼を広げてサッカーボールをキープした姿で“素早さ”と“力強さ”を表すものとして描かれている。これは、日本に初めて近代サッカーを紹介した中村覚之助に敬意を表し、出身地・和歌山県那智勝浦町にある熊野大社の神使である八咫烏をデザインした物であると言われている。/ウイキペディア引用]
(原文)

既にして進みて
中州に入らんと欲す。
山路險絶にして
嚮ふ所を知らず。
天皇夢むらく、
天照大神誨へて曰く、
今、頭八咫烏をして
往かしむ、
宜しく以て郷導となすべしと。
たまたま頭八咫烏至る。
天皇、大に喜び、
道臣命をして大來目を帥ゐ、
頭八咫烏に従ひて啓行せしめ、
遂に菟田の下縣に
達することを得たり。

神武天皇につきまして 其の十一

八月二日、
莵田(うた)の魁帥兄猾(たける あに かし)・
弟猾(おとうと かし)を呼び出された。
兄猾は従わなかった。
それで道臣命(みちのおみ みこと)に
成敗させた。
弟猾(おとうと かし)、
大(おおい)に酒で持て成し、
王師(天皇の軍勢)を労った。
天皇、酒肉(さけさかな)を兵士に分けた、
そして歌を読まれた。
是(これ)を來目歌(くめの うた)という。
天皇、自ら兵士を連れられて
吉野に参られた。
土地の者
井光等(いひかり ら)が
参って従われた。

(原文)

八月二日乙未、
莵田の魁帥兄猾・
弟猾を召す。
兄猾至らず。
乃ち道臣命を
して之を誅せしむ。
弟猾、大に牛酒を設け、
王師を犒ふ。
天皇、酒肉を軍に班ち、
乃ち歌を爲る。
是を來目歌と謂ふ。
天皇、親ら輕兵を率ゐて
吉野を巡る。
土人井光等來り屬す。

魁帥/上代、一群の人の長。首領。
賊徒などのかしら。頭目

初代神武天皇が即位以前に、大和を平定したときの勝利の宴に歌を詠み、兵士(久米部)がそれに唱和して歌った記述ですが、これが「久米歌」の始まりのようです。
また、平定の際、討伐隊の兵士をはげましたり、なぐさめたりした歌や、討伐で活躍した道臣命が、多くの余党を討ったときに歌った歌のすべてを久米歌(来目歌)といい、久米部によって、伝承されました。

久久米歌歌詞

宇陀の高城に  鴫罠張る わが待つや  鴫(しぎ)はさやらず
いすくはし  鯨(くぢら)さやる ♪
久米歌揚拍子歌詞
前妻(こなみ)が  な乞はさば 立ちそばの  実の無けくを  こきしひえ 
後妻(うはなり)が  な乞はさば いちさかき  実の多けくを  こきだひえね ♪

「現代語訳」

『宇陀の高地に  鴫をとるわなを張って 私が待っていると  鴫はかからないで
 
勇ましく大きい  鯨がかかった 本妻が  酒の肴を所望するならば
 
生えている錦木の  実の少ないところを 少し切りとってやれ
 
後妻が  肴を所望するならば
 
実の多いところを  たくさん切りとってやれ
 
いまこそ勝った  いまこそ勝った  わが子よ』

神武天皇につきまして 其の十二

九月五日、
天皇、莵田(うた)の高倉山に登り、
下界を見渡すに、
八十梟師(やそたける)、
國見岳(くにみのおか)の上に軍を置き、
女軍を女坂に、
男軍を男坂に置きて、
火を墨坂に燃え立たせる、
又、兄磯城(えしき)の兵は、
磐余邑(いわれの むら)に駐留し、
皆巳(みな すで)に陣地を死守して、
道路を塞がれた。
天皇、これを憎み、この夜、
自ら祈りてから眠られた。
夢に神の教えあり。
時に偶々弟猾(おとうかし)申し上げられた。
其の言葉、夢と通じるものがあった。

(原文)

九月五日戊辰、
天皇、莵田の高倉山に登り、
域中を瞻望するに、
八十梟師、
國見岳の上に軍し、
女軍を女坂に、
男軍を男坂に置きて、
炭を墨坂に熾んにし、
又兄磯城が兵は、
磐余邑に布滿し、
皆巳に要害を據守して、
道路絶塞せり。
天皇、之を惡み、是の夜、
自ら祈りて寝ぬ。
夢に神の誨あり。
時に會弟猾上言す。
其の言、夢と協へり。

神武天皇につきまして 其の十三

天皇、大いに喜び、
椎根津彦(しいねつひこ)・
弟猾(おとうかし)に命じて、
天香山(あめの かぐやま)の土を取り、
沢山の平皿・
天手抉(あめのたくじり と云う土器)を造り、
神を丹生川上(にぶの かわかみ)に祭り、
帝は祝って云いました、
私は八十平皿を用いて、
水を使わず飴をりましょう。
飴が出来たら、
此れより武力を使わずに、
坐して天下を平定出来るでしょう。
処が水を使わずに飴が出来上がった。
帝は祝って云いました、
天手抉(あめのたくじり)を
丹生川上(ぬぶの かわかみ)に
沈めましょう、
もし、魚が酔って浮べば、
これは私が上手に國を治めるでしょう。
天手抉(あめのたくじり)を沈めて見ると、
魚は皆、浮んでしまいました。

(原文)

天皇、大に喜び、
椎根津彦・弟猾に命じて、
天香山の土を取り、
即ち八十平瓮・
天手抉嚴べを造り、
神祗を丹生川上に祭り、
祝して曰く、
吾當に八十平べを用い、
水なくして飴を造るべし。
飴成らば、
則ち鋒刃を假らずして、
坐ながら天下を平げんと。
飴果して成りぬ。
又祝して曰く、
吾當に嚴べを丹生川上に
沈むべし、
若し群魚醉ひて浮ばゞ、
則ち吾能く國を定めんと。
天手抉嚴べを沈むるに及び、
魚皆浮び出でぬ。

神武天皇につきまして 其の十四

天皇、大に喜び、
其の時、丹生川上(にぶの かわかみ)の
眞坂樹(まさかき/現在でも神殿にて
祭祀に使用いたします)を拔いて、
神々を祭りました。
神を祭るに平皿の土器を用ふることは、
此に始りました。
又御自ら高皇産靈尊(たかみ むすびの神)
をお祭りし、
道臣命(みちおみのみこと)に
齋主(さいしゅ)を務めさせ、
嚴姫(いづひめ)と名付けた。
十月一日、
天皇、平皿の食料を食された。
兵を整えられ、
ついに八十梟師(やそ たける)を
國見岳(くにみの おか)で征伐された、
道臣命(みちのおみの みこと)に、
その仲間を誘ひ
之を滅ぼされた。

(原文)

天皇、大に喜び、
乃ち丹生川上の
眞坂樹を拔きて、
以て諸神を祭る。
神を祭るに嚴べを用ふること、
此に始る。
又親ら高皇産靈尊を顯齋し、
道臣命をして
齋主たらしめ、
嚴姫の號を授く。
十月癸巳の朔、
天皇、嚴べの糧を嘗め、
兵を勒して出で、
遂に八十梟師を
國見岳に破りて之を斬り、
廼ち道臣命をして、
其の餘黨を誘ひ
之を殲さしむ。

天皇曰く、
戰勝ちて驕ることなきは、
良将の行なり。
今賊魁すでに滅びたれども、
同惡猶繁し。
何ぞ久しく一處に頓りて、
以て變を制すること
なかる可けんと。
乃ち徙りて別處に營す。
十一月七日己巳、
大擧して将に磯城を
攻めんとし、
使を遣はして、
其の魁を召す。
兄磯城、
命を拒み、
弟磯城來り降る。


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