DAVID BECKHAM(ENGLAND)
ディヴィッド・ロバート・ジョセフ・ベッカム。
所属クラブはマンチェスター・ユナイテッド(イングランド)。
1975年 5月 2日生まれ。エセックス州レイトンストーン出身。
182cm、71kg。ポジションはMF。
1975.5.2 ロンドン東部にあるレイトンストーンにディヴィッドは生まれた。
育った場所は郊外のチングフォードという街。中流労働者階層の住宅地に住む。
その一軒家は、トッテナムとウェスト・ハムというイングランドのクラブと等距離のところにあった。
そこでひとつの疑問が沸いてくる。
「なぜベッカムは愛着のあるはずの”近所”ふたつのクラブでなく、マンチェスター市のクラブに入れ込んだのか?」
その背景には、父テッドの影響が少なからずあった。
ディヴィッド少年は、60年代のレッド・デビルズ (※マンチェスター・ユナイテッドの愛称。”赤い悪魔”)に
魅せられた父の”家系”を受け継いだのだろう。
多くのイギリスの子供と同じように、ベッカムもいわゆる”サッカー・クレイジー”だった。
ベッカムの祖父は、孫の小さいときからのスクラップを今も大事にしている。
スクラップの初めのページは、ベッカムが7歳の時の、地方紙に載ったU-8の大会の記事だと言う。
現在そのスクラップが膨大な量になっている事は、想像に難くない。
そして11歳の時「ボビー・チャールトンのサッカー教室」というなんの捻りも無いタイトルのテレビ番組で行われていた(笑)
(※ボビー・チャールトン=イングランドを代表する有名サッカー選手。)
”スキル・コンテスト”なるテクニックを競うコーナーに応募することを少年は決意した。
何よりも少年を魅了したのは、地方予選を勝ち抜いた後に待ち受ける全国大会のコンテスト会場が、
憧れのユナイテッドのホームである”聖地”オールド・トラフォードだったからであろう。
そしてディヴィッド少年は、数百人が集まったロンドン地区の予選で見事に優勝。
実力で、夢のスタジアムでボールを蹴る栄誉を勝ち取ったのである。
全国コンテストは、ユナイテッドのホームゲームの前座として行われた。
ユナイテッドの対戦相手はそう、少年の家の”近所”のトッテナムだった。
時間が迫り、場内アナウンスでベッカムの名前が紹介された。
「エセックス出身のディヴィッド君です!!」
アナウンスと同時にトッテナム・サポーターの歓声が沸き起こる。
エセックスはトッテナムの支持率が最も高い地域で、スタンドで歓声をあげた彼らは、
このディヴィッド少年も間違いなくスパーズ(トッテナムの愛称)ファンである事を確信していたんだろう。
しかし、その後すぐに続けて殺人的アナウンスが流れる。
「ディヴィッド君はマンチェスター・ユナイテッドのファンです!」
さっきまで彼に送られていた歓声は一瞬にしてブーイングに変わったのだった(笑)
そう、これがベッカムの経験した人生最初の大ブーイングである。
ちなみにコンテストでベッカムは記録的大差で優勝。副賞として、バルセロナ旅行がプレゼントされ、
そこで英国を代表するふたりのストライカー、リネカー&ヒューズとも対面している。
10歳そこそこですでに正確かつ、早いボールを蹴れるようになっていたベッカム。
ウォルザム・フォレストのU-12でプレイしていた彼のまわりには当然の如くスカウトがうろつくようになった。
そんな彼に最初にコンタクトしたのは他でもない、
マンチェスター・ユナイテッドのロンドン部門スカウト、マルコム・フィッジオンだった。
「今度オールド・トラフォードにテストを受けに来ないか?」
その時のベッカムのリアクションは、それこそ飛び上がり、泣いて喜んだという。
それから、ユナイテッドがロンドンに遠征した際には常にベッカムも帯同した。
当時ユナイテッドのキャプテンだったスティーブ・ブルースは言う。
「ロンドンでの遠征の時、いつも小生意気そうな金髪の少年がいたのを覚えている。
彼が同じ年代の子供達とは一味違う事は、チームメイトもみんな知っていたよ。
だってあのボビー・チャールトンが”私がこれまで見てきたどの11歳よりも素晴らしい”と
別格扱いしていた少年だから余計にね」
この頃、地元ロンドンのトッテナムがベッカムの引き抜きを試みたが、あえなく失敗に終わっている。
彼はエセックスのスクールで1500M走の校内チャンピオンに4年連続で輝くなど、
アスリートとしても才能を存分に発揮していた。
ただし彼は、”体が小さい”という理由から英国少年選抜からは漏れている。
当時のコーチはこの決定に激昂するが、その時はテクニックよりも”体格”を重視されたのである。
だが、ベッカムはこれにもめげることなく16歳の時にマンチェスター・ユナイテッドと
2年間のトレイニー(練習生)契約にサイン。
1991年7月8日、念願のプロフットボーラーになる大きな一歩を踏み出したのだった。
プロチームと契約を交わしたことでベッカムは住み慣れたロンドンから、
いよいよマンチェスターへと引っ越さねばならなかった。
週給はわずかで、トップチームの選手の靴磨きなど、決して条件は良くなかったが、
彼はこの新しい生活に満足していた。憧れの場所でサッカーができる喜びを噛みしめていた。
仲間に恵まれた、ということも勿論あるだろう。
92年のユナイテッド・ユースは現在のトップの中核をなすヤングスター、
ギグス、スコールズ、ネヴィル兄弟らで占められていたのだから。
その逸材達は人々に「ファージーズ・フレジリングス(ファーガソンのヒナたち)」と呼ばれた。
そしてユースのハリソン監督の指導のもと、彼らはFAユース・カップで優勝。
ベッカムは決勝のクリスタル・パレス戦でゴールを挙げ、”赤い悪魔”の一員として、
初めてのメダルに花を添えたのだった。
ハリソン監督は当時のベッカムをこう振り返る。
「初日で彼の才能を確信しました。彼は通常の練習後も、グラウンドに戻ってきて
プレース・キックを蹴り続ける練習熱心な子供だったのを覚えています」。
93年1月23日には、ファーガソン監督の要請でトップと正式にプロ契約。
ファーガソンは”イングランドのホープ”の重要性を痛感していたのかもしれない。
実は93ー94シーズンのユナイテッドは”外国籍の選手は3人まで”というUEFA規定に悩まされ、
思ったような活躍ができなかったのである。
ベッカムは94年12月再びトップチームに昇格。トルコの強豪ガラタサライを4-0で下す
立役者(1ゴール)となったが、ファーガソンはこれにもまだ満足していなかった。
そこで彼は、ベッカムを2部リーグ、プレストン・ノースエンドへの4試合限定のレンタル移籍を実行する。
「下部リーグでもっとフィジカル・ポテンシャルを上げてこい!」それがファーガソンの指令だった。
”天才”は見事に2部で監督の要求を遂行し、帰ってきた。
95年4月、19歳のベッカムはリーズ・ユナイテッド戦で記念すべきリーグ戦”フル”デビューを飾る。
ベッカムがプレミアリーグにその名を刻み始めた95-96シーズン、”赤い悪魔”は移籍騒動に揺れていた。
これまでのスター選手だったインス、ヒューズ、カンチェルスキスを余りにも惜しみなく放出した上、
目立った補強もほとんど無かったファーガソンの政策を疑問視する声が大きくなっていたのだ。
そして開幕時のアストン・ヴィラ戦で1-3で敗れると、それはますますヒートアップした。
「”キッズ”だけで優勝できるとでも思ってるのかぃ?」コメンテーターも皮肉を言い、煽った。
だがその9ヶ月後、ファーガソン率いるユナイテッドはリーグ&FAカップのダブルクラウン(2冠)を達成した。
結果で批判を一掃したのである。
ダブル・クラウン達成の翌シーズン、ベッカムは開幕のウィンブルドン戦で、
その才能を証明するスーパー・ゴールを決めている。
中盤でルックアップすると、素早くキーパーのサリヴァンのポジションを確認、
なんと約52Mの距離からガラ空きのゴールへボールを放り込んだのである。(マジでスゴかった)
この伝説的なゴールで、すっかり”ワンダーボーイ”の称号を手にしたベッカム。
数週間後には、イングランド代表にも召集されることになる。
マンチェスター・ユナイテッドではライアン・ギグスが”神童”としてもてはやされた時期があった。
そしてその時期が今度はベッカムに巡ってきたのだが、ファーガソンはそれが心配でたまらなかった。
「メディアの過剰な取材攻勢」。インタビューの山とTV出演・・・・・。
本業のサッカーに影響を及ぼす事をファーガソンは恐れたのである。
そこで彼は「ベッカムに関する全ての取材拒否」を敢行。
マスコミ等にも「選手をラップで包み込む気か!」と反撃を受けたが、彼は頑として屈しなかった。
そして監督の擁護のもと、青年はサッカーだけに集中、すくすくと成長していったのである。
ベッカムはすでに若手No.1の座を確立していた。正確なFK、50Mのピンポイント・クロスは、
オールド・トラッフォードの5万5000人の観客を魅了。
前線でコンビを組んだエリック・カントナとの攻撃力は強烈だった。
96-97シーズンは、ベッカムにとって2度目のリーグ制覇という大きな1年となった。
そして選手投票により新人王を受賞した。
また97年は彼にとって”違った意味”で運命的な年となった。
3月15日、シェフィールド・ウェンズデー戦。
試合は2-0でユナイテッドが勝利。ここまでは何でもない事だったが、
スタジアムにはある女性ポップシンガーが観戦に訪れていた。
そう、英国では言わずとしれた女性人気グループ、SPICE GIRLSのヴィクトリアである。
彼らは試合終了後にラウンジで会うと、一目で魅かれ合ったという。
その後はやかましいプレスのレンズを避けるように密会を重ねていたが、
2人の関係が暴露されるのにそう時間はかからなかった。
天使のような風貌、若くして掴んだ名誉、そして財産と共有する部分の多いふたりは
メディアの格好のネタとなったことは言うまでもない。
ふたりで犬の散歩、買い物をするだけでもフォーカスの標的となった。
どこで試合をするのにも冷やかしのブーイングの的となったベッカムは、
ユナイテッド・ファンからも「ヴィクトリアと付き合い始めてから調子が悪くなった」と酷評。
しかしふたりの絆はどんどん強くなっていくのであった。
この世間を騒がせたビッグ・カップルはブルックリンという名のジュニアが誕生。
いまでは幸せな家庭を築いている。
話を戻して、96ー97シーズン終了後の7月にはカントナが「現役引退」を発表。
この発表には世界中が衝撃を受けたが、ベッカムも例外ではなかった。
しかし彼も寂しがってはいられない。なぜならカントナの背番号”7”がベッカムへと引き継がれたからだ。
ベッカムが少年時代に憧れたブライアン・ロブソンの背番”7”の系譜を、フランスの”キング”カントナから託された。
マンチェスター・ユナイテッドは英国を代表するビッグ・クラブで、多くのファンを抱えると同時に、
それをやっかむアンチ・ユナイテッドの数もばかにならない。
彼らのユナイテッドの中心選手に対する罵言雑言は、むしろ病的である。
そんな彼らにとって、ヴィクトリアと交際中のベッカムは格好の標的だった。
「(妊娠中の)ヴィクトリアの腹の子供の本当の父親は誰か分かったもんじゃないぞ!」
いかにも、腹に据えかねるヤジである。
しかしベッカムは”口”ではなく、”足”でキチンと答えた。
痛快なゴール後に見せる両手を耳に添えるパフォーマンスは
「どうした、さっきまでのヤジを続けてみやがれ」とでも言っていたのだろうか。
ベッカムは汚い言葉を投げかけるファンに対しての姿勢は一貫している。
「97年の僕に対するブーイングはすごかったよ。でも、オフィスで監督に
”おまえは観客とサッカーをするんじゃない。ゲームに、自分のプレーに集中しなさい”って
アドバイスをもらってね。自分が演出するプレーで、逆に喝采を買ってやろうと思ったんだ。」
周囲の圧力をこうして乗り切ったベッカム。
だが、さすがに代表チームでのブーイングは応えたようだ。
「彼らはユナイテッドを嘲笑する歌を歌い始めたんだ。僕はイングランドを代表してプレーしているのに、
彼らは母国に勝って欲しくはないのか、と驚きというよりはむしろ失望したよ。」
97-98シーズンはプライベート問題、カントナ不在と、かなり苦しいシーズンとなったが(カントナ不在は本当に響いた)
ベッカム自身はチーム最高の11得点を挙げ、スペクタクルな1年を過ごした。
しかしチームがアーセナルに2冠を奪われた事を考えれば彼にとっても後悔の残るシーズンだったかもしれない。
あの時のアーセナルは、悔しいがユナイテッドを凌駕していたと個人的にも思う・・・。デニス・ベルカンプ、恐るべし(笑)
その後98年、フランスワールドカップ。
ベッカムにとっては”陰”と”陽”の入り混ざった大会になった。
当時のイングランド代表監督のホドルは、ベッカムのタレント性をまだ疑問視していた節があり、
まず開幕のチュニジア戦は完全にリストから外され”陰”が訪れる。
しかし、2戦目に怪我のインスと交代で出場し、3戦目のコロンビア戦ではFKを直接叩き込み、
素晴らしい代表初ゴールで才能の片鱗を見せつけ、”陽”が彼を包む。
そして決勝トーナメント第1戦、アルゼンチン戦には期待が高まっていたが・・・。
後半開始直後にアルゼンチンのシメオネにタックルを受け、反射的に蹴り上げてしまい
その行動が報復とみなされて、退場処分をくらう。ありゃあ、言うなればシメオネのファインプレイ(笑)
チームを数的不利にし、その後の敗北を導いたとして、”ヒーロー”は再び”ヒール”に逆戻りしていた。
そして、帰国後の彼は批判の矢面に晒され続ける事になる。
しかしベッカムは批判を黙らせる術を知っていた。”サッカー”をすればいいのである。
98-99シーズンの開幕のレスター戦、ベッカムは超悶絶モノのFKを決め、一発でユナイテッド・ファンの心を掴む。
5万5000人に膨れ上がったサポーターが大声で歌った。
「One Beckham,there are only one Beckham.」
英国を巻き込んでの”ベッカム叩き”にもオールド・トラッフォードの観客には無縁だった。
また、反ベッカムの一連の動きは面白いも。批判的で知られる彼らはベッカムのプレーを賞賛する事がある。
「ベッカムのプレーを毎週観たいよなぁ〜」。
ベッカムを悪く言う連中は、ベッカムが憎いのではなく、彼と照らし合わせた自分の人生が憎いのである。
99年、プレミアリーグは最優秀選手にトッテナムのダヴィド・ジノラを選出したが、
本来ならベッカムが受賞すべきだったのかもしれないとの声も多かった。絶対ジノラのパフォーマンスが上だったと思うが(笑)
これには、スター選手揃いのユナイテッドの選手達が大きく票割れしたため、とも言われる。
トッテナムで不動のエースの地位を確立するジノラに対して、
ベッカムはキーンやヨーク等と票を分け合ってしまい、ジノラの後塵を拝したのである。
いずれにしても、幾多の批判を乗り越え、リーグ、FAカップ、チャンピオンズリーグ、トヨタカップ制覇。
4冠達成の原動力となったベッカムが最高のシーズンを送ったことは誰もが認めるところだ。
アシスト王、被ファウル数ナンバー1など、彼は個人記録でも恐い選手であることを証明した。
またそのスタミナもファーガソンが認めるところで、劇的に勝利を飾ったチャンピオンズリーグ準決勝の、
トリノで行われたユヴェントスとの弟2戦、ヘッドコーチはベッカムの走った距離を計算したという。
その距離9マイル(約14.5km)・・・・・。これは常軌を逸した数字である。
ベッカムは現在、幸せを謳歌している。
4冠達成、7月4日のヴィクトリアとの挙式、愛する我が子、ブルックリンの存在・・・・。
彼は背中に名前のタトゥーを入れるほど、ブルックリンを溺愛している。
サッカー選手としての評価も日増しに高まる一方で、彼に寄せられるのは賞賛の世辞ばかりだ。
「他のクラブでやりたいなんて思った事なんて1度も無い。
僕は世界で最もビッグなクラブにいるんだからね。」と
淡々と話すとおり、彼はこれからもユナイテッドとイングランドを栄光に導いてくれるだろう。(最終更新日:1999.11.2)
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